黄昏色の空の下、影の世界の中心と定められ二つのソルが安置された平坦な広場の果てで、何事かを待ち続ける人の集団があった。
銘々にこれから始まることへの不安や、期待を小声で囁きあっていた彼らはやがてとある気配に一斉に沈黙し、その中空をみつめた。
三角形を三つ組み合わせた、偉大でそして最も恐れるべき神の紋章を中心に複雑な形状を織りなす大きな円形の紋様が光って浮かぶとその真中が筒のように奥行きを持ち、そこから霧のように光の粒が流れ込んだかと思うと人の姿を形取ったのだ。
紋様から足場が組み上がり階段が降ろされ、その上に立つのは広場で待ち受けていた人間達とは少々趣の異なる集団だった。
足場の上に立つ集団の先頭にいるのは妙齢の女性、広葉樹を象った形のティアラを嵌めた貴人だった。艶のある茶色い長い髪を尖った耳の両脇と背とで纏め、ほっそりした体を紫と白色のドレスに包んでいる。
また貴人を出迎えて一歩前に出たのも妙齢の女性だった。額に蛇の意匠のサークレットを嵌め、入り組んだ模様が織り込まれた黒衣からはこの世界の空の色と同じ黄昏色の髪がのぞく。その姿は迎えた女性より頭一つ背が高い。
二人は顔を見合わせるとどちらからとなく微笑みあった。
「…ようこそゼルダ。貴女をやっとこの世界に迎えられて嬉しく思う。歓迎しよう」
階段を下り、影の世界の大地に足を踏み降ろしたゼルダに、女性は手を差し出した。
「ええ、私もこの日を待ち続けていました…お招き頂いてありがとう、ミドナ」
ミドナの差しだした手を取り、互いに両の手を重ねて堅く握りあうと、双方が後ろに従えた人間達から-つまりその家臣達から-感嘆の声と、拍手の音が上がった。
どちらかがどちらかを一方的に従えようというのではない。
また過去を詫びたり恥じたりするのでもない。
その握手は長い間分かたれていた、光の世界と影の世界が再びまみえたことの証だった。少なくとも公式には。
以降影の世界ではその日来臨した光の世界の女王を自国の主と対比して暁の女王と呼ぶ者もあったが、それは後々の歴史に属する話になる。
何年も通い詰めたお陰ですっかり勝手知ったる場所になり、一風変わった光の世界からの使者として顔を知られてからは宮殿のどの場所もほぼ咎められることなく出入りできるようになった(その点影の世界の宮殿はハイラル城よりかなり大雑把だった)のだが、その時も侍従は気安く尋ね人がどこにいるのか教えてくれた。
恩賞の一部として影の世界を初めて訪れるゼルダに随従する家臣達の中に混ざることを許されたのだが、彼らが式典を終え光の世界へ引き上げた時はそれには同行せず影の世界に居残ったのだ。
求めた姿は宮殿の胸壁の上に見つかった。彼女は今し方光の世界から来た者達が帰っていった、光の世界と影の世界を結ぶゲートが消えた辺りを眺めていた。
「…ミドナ」
声をかけると振り返り、赤い瞳が己を認めて微笑んだ。
「…来たのか」
「お祝いが言いたくてこっちに残ったんだ。おめでとう」
もっとも彼女にしてみれば今日のことで全てが終わるわけではなくむしろ新しいことが始まるわけで、もしかして気が早いのかとも思ったが他に適切な時期と言葉は思い当たらなかった。
「ありがとうな。これでやっと一区切りだ」
彼女の横に並ぶと、眼下に広がる荒涼とした大地と、そこここに点在する影の世界の民人の集落とが見えた。この世界に来た当初はザントの陰謀の余波であるべき姿を酷く歪められていた人達も時の経過と共に徐々にだが元の姿と言葉とを取り戻し、その生活にも以前のような穏やかさが戻りつつあるようだった。
「…これからまた忙しくなるぞ」
「そうだね」
やれやれと言った感じだったがその横顔は一つのことを終えた満足と矜持を湛えていた。
ミドナの言葉とは別の意味で己が一番気になるのはこれからのことだった。
己が最初にゼルダに召されたのは己がミドナと多少の縁があり、光の世界の大方の人間にとってとって影の世界が未知の世界であり、そしてゼルダとミドナのやりとりは表に出せない類のものだったからだ。
けれど公に交流を持つことになったとなれば国の間の連絡はしかるべき人間が執り行うことになるだろうし己の務めは終わる。
旅の仲間だった気安さと堅いことにはあまり拘らないらしい土地柄のお陰ででこれまでそれほど真剣に考えたことはなかったが、喪が明けて即位したミドナは正式にこの国の女王であり務めを終えた己はただの光の世界の平民だった。
「…ゼルダから聞いたぞ。位階も金も断ったんだって?」
遠くを眺めたままで、からかうような口調だった。どうやらすっかりこっちの話は伝わっているらしい。確かにゼルダから、「非公式にだが長い間仕えてくれたことに対して」相応の褒美をとの話は持ちかけられた。
「僕みたいなのがハイラルの城下町で暮らす貴族なんて向いてないし村に住むなら沢山のお金はいらないからね」
「で、それかよ。欲がないってか変だろ」
ミドナは目敏く己の腰を指さした。
式典に参列するのにあたり村の普段着や勇者の服ではあまりにも格好がつかないだろうと、貴族の子弟が着るようなしっかりした仕立ての服を渡されていたが腰にはやはり剣帯を巻いた。下げたのは恩賞として賜った業物の剣だ。
「これ以外にもゼルダ様にはお願いしておいたよ。もしこれから村に何かあったら色々ご配慮下さいますようにって」
「楽して暮らせる機会だってのに物好きなことしたな」
「だから、そういうのは僕には向いてないから」
「ふーん」
つまらなそうに言うとやがて、何かを思いついたようにミドナは己に向き直った。
「…そういえばリンク、お前は他に欲しいものはないのか?」
「他にって?」
「光の世界の王様から褒美を貰ったんだろう?リンクはここでもちゃんと働いてくれたんだ、私が影の世界の王として何か用意してもいい」
その、互いの間の越えがたい距離なんてほんの少しも感じさせない軽い言い方に内心吐息をつく。
「…僕は」
喉に何かが詰まったような気がしたがミドナが柔らかく促したので、それに押されてようよう続けた。
「今までそんなに気にしてなくて悪かったけどミドナはこの国の王様だよね。…僕はもうゼルダ様とミドナの間の連絡を取り持つ仕事はお終いになったし、だからもう気楽に影の世界には来るなって言われるかもしれないけど」
一体どこから始まったのか。
あの日草原に立ち尽くす姿を見た時か影の世界に帰してくれないかと言われた時かそれとも影の世界を立派に復興してみせると笑った時かそれとも今でも思い出すあんな生々しい夢を見たからか。
わからないけれど現金じゃないかとか考えるのはもう止めた。背の丈も何年も待ったのに惜しいところで彼女には届かないけど気にしてたら言い損ねてお終いだ。
「けど?」
「ミドナが嫌じゃなければ…迷惑にならなければだけど、僕はまたこっちに来てミドナと会ったり話したりしたいんだ」
ミドナは一瞬、面食らったような顔をした。
「…駄目かな」
「…難しい話だな、そりゃ」
しかしそれも悪戯めいた表情に変わって、赤い瞳を何かを思案するようにくるりと巡らす。
「でも私のことを何度も体張って助けてくれた大恩のある奴の言うことなら考えてみるのもやぶさかじゃないぞ?影の世界の人間だって恩に報いる方法はちゃんと知ってるとも」
ミドナは手を己に差しだした。その手を取ろうとすると小さく首を振り、己の腕に腕を絡めてくる。
「…とりあえずゆっくり話してみようじゃないか。それから色々決めよう」
そして、ミドナは宮殿の中へ戻ろうと己を導いた。屋内に入り際目に映った黄昏の空は、光の世界の夕暮れ時の空の色ではなく朝焼け時の空の色のように思えた。