なつのこばなし

それはそろそろ緑の輝きが濃くなる頃の晩の話。
帰宅した朝倉総一郎は出迎えた妹を前に、朝方出勤したときには持っていなかった筈の腕に下げていたバッグを床におろした。
ごとり、という重めの音に何が入っているの?と妹が-朝倉晶乃が尋ねると、総一郎は見てのお楽しみだよ、と、バッグの口のファスナーを引いた。
そしてその中から出てきたのは、白い物体だった。
「え、お兄ちゃんこれって…?」
晶乃は目をしばたくと、まず疑問を口にして、そして兄がただ穏やかに笑っているだけなのを見てもう一回目をしばたいた。
それはイヅナだった。箱実製薬謹製の一見白い細身の獣を思わせるフォルムの自律機動車両の、人が小脇に抱えられる位の大きさだから何分の一か、いや何十分の一かの…プラモデルというには随分造りがしっかりしているようだ。
兄はダメ押しをするかのように言った。
「これはイヅナなんだよ」
「どういうこと?」
そう、本来の、軽自動車くらいの大きさの「イヅナ」は二月初頭に開かれた自律機動車両の性能を競うトライアルに参加し、そして現在の人工知能論ではどうにも説明検証不可能な数々の事件を起こし、最終的には箱実のラボから脱走していたのをようやく捕獲(事件の詳細を知る人間には捕獲という表現は受け入れ難いだろう)して戻ってきた。
現在は、脱走中はその劣化が危惧されていたイヅナのAIの中枢を成す有機モジュールの交換も済み、残ったイヅナの行動記録からAIの検証作業がされているとか、そんな話だった筈だ。
「イヅナは設計段階から必要とされる作業を想定して既存の概念のAIの利用は考えれらてなかったんだけど」
小さなイヅナのてっぺん部分の装甲を総一郎は開くとそこから覗く幾つかのスイッチを弄った。通電したと思しき起動音がしたのを確認すると撥ね上げた装甲を元に戻す。
「今度は逆の発想でね。晶乃も知ってるだろうけどプログラムは基本的には0と1からできてる。このイヅナはその0と1だけで「あの」イヅナを再現できるのかっていう検証実験なんだ」
「イヅナを再現するって…ええと、前にラボで杉田と高柳が言ってたみたいな複雑な処理を全部0と1で処理するようなプログラムになってるってこと?」
晶乃は未だに記憶に鮮明なラボで初めてイヅナに出迎えられたときのことを思い出しながら言葉を選んだ。あの後できる限り関連することを調べてイヅナに有機モジュールが使用されているのははいといいえだけでは処理できない灰色の混沌の領域をイヅナ自身で学習し判断できるようにするためだと自分なりに噛み砕いて理解していたから。
「そう、勿論有機モジュールを使用したときみたいな行動の柔軟性は望めないし自分で判断できないことに直面したら止まってしまう設計になってる。けどある程度までは学習することができるしカメラアイで人の固体認識も可能なんだよ。記憶容量もそんなに大きくはないし冗談半分本気半分位なんだけどね。でもラボでのテストは結構優秀だったしそろそろ外に出して経験積ませても大丈夫だってことになったから連れてきたんだ」
晶乃は小さなイヅナの前に膝を突いて座った。カメラアイがきゅるきゅると音を立てて晶乃に向く。
総一郎も隣に立つとゆっくりと言った。
「イヅナ、記録して。これは、あさくら あきの。あさくら あきの」
ややあって、イヅナがなんとなく「イエス」っぽい音を出す。
「晶乃を認識したよ」
「本当?」
総一郎は頷いた。
「簡単なコマンドは後で晶乃にも教えてあげる。本来だったらイヅナを再現するだけなら市販のラジコンにAIを載せただけのようなものでも良かったんだけどこういう外見になったのは宗親くんと高柳くんのこだわりも入ってるし僕の希望でもあるんだ。これからも連れてくることがあると思うからその時は相手をしてあげて。ペットとしては可愛らしさが足りないかもしれないけどね」
晶乃は微笑んだ。
「ううん、そんなことない。ありがとうお兄ちゃん。よろしくね、イヅナ」
イヅナが再び、「イエス」っぽく答える。
「さて、大荷物を持って帰ってきたからいい具合にお腹が空いて夕飯が楽しみなんだけど今日は何?」
「あ、ごめんなさい。いい白身のお魚があったからバター焼きでどうかなって。これから焼くからちょっと待ってて」
「いいね、美味しそう」
総一郎はバッグを取り上げると小さなイヅナに声をかけた。
「この家の構造も覚えておこうか。イヅナ、来て」
イヅナを従えて自室に向かった兄を見送ると、晶乃も夕飯の支度を整える為に立ち上がった。

そしてまた、それから少し経った箱実製薬のラボの、終業時間が過ぎてからの話。
イザンは自分の上司とラボの誇る主任研究員が二人揃って休憩室のチェアで談笑しているのを見つけると、つかつかと休憩室に歩み入った。
「エル、やっと見つけた!人に終業までに報告書上げろって言っておいて当の上司がのんびり油売ってるのって酷いんじゃない!?」
投げつけられた言葉にエリオットはコーヒーの注がれたカップ片手に平然と答えた。
「仕上がり具合からもう少し時間がかかりそうだと踏んだ。それで、出来たのか」
「そりゃもう完璧に。あとはエルの決裁だけ。大体ボクってただ椅子に座ってキーを叩いてるようなの苦手なんだよねー。退屈で」
言いながら自分も何かを飲もうと自販機に向かって、イザンはふと気がついた。
グレーと青の二色の調度でまとめられた休憩室の、長方形のデスクのあっちとこっちにエリオットと総一郎。総一郎が座ってるのはエリオットの真向かいじゃなくて斜め前。二人だけで話すには妙な配置だ。
「…なんだ、誰か来てたの?客?」
「ああ、晶乃が来てたんだよ。宿題があるとかで先に帰っちゃったんだけど」
これまたカップを手に総一郎がのんびりと言った。
「えー、それなら言ってくれれば報告書なんて放り出して来たのに」
晶乃が三年生になってからは当然一緒にやっていたバイトは辞め、受験生としても勉強が気を抜けない域になり、となれば総一郎からも「晶乃のペースを乱すようなことはしないでね」と警告されまくりでこのところ晶乃と会ったり話したりという機会自体が少なくなんとなく面白くない、とはいえ子供じゃないのでごねるわけにもいかないイザンはむくれて取り出し口からジュースを出した。
「晶乃くんは遊びに来たわけではない。進路の参考に私の話が聞きたいと言われた」
「進路?」
「晶乃が具体的に大学でどういう分野のことをやりたいのかって方向がエリオットの元々の専攻と被ったからね。学校の進路指導担当の先生には学校選びのアドバイスは貰えるけど具体的な学問の内容となると専門外になるからエリオットに時間を割いてもらったんだよ」
総一郎の言葉にエリオットも頷いた。
「…って、エルは情報工学でしょ?晶乃もなの?」
エリオットは現在保安部に所属しているが大学在学中は全然畑違いの情報工学を専攻していた…ということ位は承知していた。そして保安部に入ったところで情報系の知識は追い求めるのを止めてしまった訳ではなく彼なりに切磋琢磨していたらしいのは思いがけない形で知ることになったのだが。
「そう、何かの形でロボットに関する学問に関わりたいというのが晶乃くんの希望だ。ロボット工学と言っても制御系や機械系や、中身が細かく分かれるのはお前も知っているだろう。その中で晶乃くんが目指すのが人工知能開発を含む情報工学ということだ」
総一郎が勧めたのかそれとも晶乃から言い出したのかはわからないことだがどちらにせよエリオットの性格からすると肯定面否定面含めてかなり真に迫る話が聞けたことだろう。
「へえ?晶乃ってそういうのに興味なさそうに見えるけどね?化学とかそっちのイメージ」
とはいえ全く意外という話でもない。箱実学園は成り立ちからしてもかなり理数系の強い学校であるし挫けた生徒以外は殆ど理系の学部に進学する。それにあのイヅナに関わった人間は事件から大なり小なりの影響を受けている。自分もそうだし、ましてやイヅナに一番付き纏われた晶乃が何らか思うことがあったところで不思議はない。
「このところ小さいイヅナを家に連れて行ったりしてるからその影響があるんだと思うよ。関係学科の成績も悪くないんだし晶乃が希望するんだから僕は反対しないけどね」
「…ふぅん?」
「つまらなそうだなイザン?お前も希望があるなら進学しても構わないと言われている筈だが?」
「別にー。そうやって追いかけられるって羨ましいなーって思っただけー」
イヅナの残していった影響は多分晶乃にとっては一種の聖痕で、それは何をしても消し去られることのないものだ。そして学問の選択はきっと綺麗に逃げおおせた白狐を探す手段を求めてのこと。
晶乃にそこまでした相手にできることなんて嫉妬しかない。ケンカ売ろうったってもう居ないんだし。
「追いかけられる?」
紙コップを口に咥えたままぷっと吹き出すとコップは綺麗な放物線を描いてゴミ箱に収まった。そのまま回れ右をする。
「…ボクもう帰るね。報告書はエルのとこに送っといたから確認よろしく」
そして、休憩室に入ってきたときと同様につかつかと出て行ってしまったイザンの後姿に、年長者二人は顔を見合わせた。

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