サイアスとウスピラ

 

 つやつやとした緑色を背に、赤い髪が翻って。
 「ああウスピラか。どうしたんだい?今日は君も休みの筈だろ」
 ラフな平服を纏った青年は感じのいい微笑みを浮かべて問いかけてきた。

 軍は指揮がなければ動けない、それに今は非常時だ。それを承知していたから形式的な勤務スケジュールなんて横に置いて前線に立ってきた。それをオーバーワークが過ぎるだろうと互いに非難しあったこともある。
 が、部下にも細かく心を砕く上の人間に二人揃って直に呼び出されたのだった。どういうわけか勤務実態報告に生真面目に目を通したのらしい。
 あなた達何なのこれ、わが軍は滅私奉公なんて求めてないのよ、二人共休みなさい。どっちも部下の子が育ってきてるって言ってたじゃない、いい機会だしその子に任せてごらんなさい。今はそれほど忙しくないからサポート役は勿論こっちで選任するわ
 確かに部下もいい感じに成長してるのは以前申し上げた通りですが
 赤い髪の青年はこちらに少し目配せして、こちらも多分考えてることは同じだったから頷き返すと彼は続けた。
 炎軍と氷軍と双方の指揮を同時に慣れない者に任すのは不安です。そういうお考えはありがたいですが片方に慣れた人間を残した方がよろしいかと存じますが。俺達の休暇は交代で構いませんから
 青年の言葉に上の人は肩を竦めただけだった。
 わかってないのね、だからよ。あなた達は長く一緒にいるから息も合うしどちらかの未熟をどちらかが補うなんてこともできる。でもいつまでも同じとは限らないわ。どちらかが欠けることも両方欠けることもこの先可能性としてないなんて言えない。だから本当に最悪の非常時にちゃんと動けるかどうか確認しておくの
 それでも、素直に了解するのは収まりが悪い気分がした。
 …お気遣いありがとうございます。ですが千鶴子様、千鶴子様はお休みにならないのですか
 眼鏡の奥の少しくぼんだ瞳と瞼に落ちてる影もまた、一日二日の積み重ねで出来上がるものではないと知ってるから。
 知らないの?
 軽く笑われた。
 聞き分けのない子がちゃんとベッドに行っておやすみなさいってするまでお母さんは寝られないんだから
 …
 司令部を退室し二人並んで廊下を進んでしばし、角を曲がって後にした部屋の扉も見えなくなるとサイアスは天を仰ぎ収まりの悪い髪をかき回した。
 「…参った、俺達は子供扱いか。ウスピラ、君はどう思う」
 「どうも何も。私達もう少しと思ってここまで来たけど正直に報告したのが良くなかったかしらね」
 そう、今の状況は『あともう少し』だったから。
 やることなすこと無茶苦茶な総統閣下は無茶苦茶だけど不思議と戦場を上手く回してゼスに居座った魔人を軽く蹴散らしてしまった。氷軍と炎軍、ひいては自分とサイアスも彼と彼の部隊のお陰でどうしようもない破滅からは免れた…と思ったら彼らはお前らの取り分は残しておいたからなとでもいうようゼスの残存人員でも充分対応できる程の規模に魔軍を削って嵐のように去ってゆき、今は他の国で同じようにしているらしい、というのは目を通す戦況報告で知っている。
 魔物との戦いは人対人との戦いと違ってどちらにも投降という選択はない。魔人が姿を消しまだ人類側に充分な余力がある間に殲滅を進めようと近頃はゼス軍全体で軽い躁状態ではあった。
 「…でも千鶴子様は気まぐれを試す人ではないし戦況と軍の状態もちゃんと検討してのことでしょう。その上で言われたことなら私にははいとしか。さっきの様子だと私達なんかより千鶴子様の方が心配だけど」
 「そうそのことだけど…と」
 近づく人の気配に彼は視線を投げた。士官がこちらを認めると軽く目礼し、横を通り過ぎてゆく。その姿も消えて廊下にある人影はまた二人だけになった。
 「まあ働きたくなくてごねるならともかくその逆ってのもおかしな話だな。美人の言うことなら素直に聞いておくとするか」
 「総統閣下みたいなこと言うのねサイアス」
 「やめてくれ」
 何かを思いついたように彼はもの思わしげだった表情を切り替えた。
 「そうだ、それなら君の休みの予定はどうなってるんだい」
 「たった今言われた話でそんなものないわよ」
 「それなら予約を入れて構わないか?俺とデートしよう」
 人好きのする笑顔でさらっとそんなことを言う。この青年は色々とまめだ。
 「ごめんなさい、あなたもたまにはのんびりした方がいいと思うけど」
 「…つれないな、どうも」
 言葉とは裏腹にこたえた様子もなく飄々として、再びお互いの持ち場に帰る為に別れの挨拶を交わした時には彼はすっかり普段通りだった。

 
 そして不意に休みになってしまって幹部用の兵舎で一人、目を覚ましてから時間はやけにゆっくりと流れていた。
 元々前線から戻った時に寝る為だけに帰る場所だし従兵が部屋の中を整えてくれる。静かな部屋は見覚えもない他人のものを借りているようでどうも落ち着かず、かといってこういう時にこそと会いたい人間も特に思い浮かばなかった。
 そういえば彼も休みの筈。
 でも断っておいてそれは虫の良すぎる話。休みの日にまで同僚と顔を合わせていたらもう休みというものではない気もする。だらりと過ごしてしまうのは時間の無駄だから外に出てみようか。
 思いついて椅子から立ち上がりかけ、まだ町が動き始めた位の刻限を指している壁の時計を見て固まってしまう。どうも知らないうちに慌ただしい生活が骨身に染みてるようだ。
 …と、ノックの音がした。
 何となく嫌な予感がして扉の方を見る。休みだと伝えてあるのにかかる呼び出しはあまり良いものではない。
 跳ねた胸を落ち着かせるために息を一つ深く吸い込むと扉に向かい解錠した。
 「ウスピラ将軍お休み中の朝早くから申し訳ありません」
 心底申し訳ないという空気を全身に纏って頭を下げる少女は間違いなく軍属の者なのに、不思議とその顔には見覚えがなかった。

 
 「何だか半泣きだったわよ、あの子」
 少し待っててくれと言われたので部屋の隅の使われなくなって随分経ったような色褪せた椅子にかけ、彼がのんびりと鉢植えにじょうろで水を撒くのを見守った。
 「昨日帰る時に休み明けでいいってちゃんと言ったんだけどどうも生真面目な子でね。熱中すると人の言葉が耳に入らないタイプだ」
 「それでサイアス将軍はどちらですかって尋ねたらきっとウスピラ将軍が知ってるって炎軍の人に言われたって。どうして?」
 「どうしてかは是非とも俺の方が聞いてみたいな。俺だって今まで何度か君を誘ったけどここに来てくれたことなんてなかった」
 「ここ」はすなわち彼の趣味の部屋だった。炎軍の将軍は草花を好み、上官特権とやらを駆使して使っていない兵舎の一室を調度も何ものけてしまって簡単な棚をしつらえ鉢を置いて、休暇の際にはそれらの面倒を見るのに結構な時間を割くのだということは彼本人から聞いたことがあるし彼とつきあいの長い人間は知っていることだ。ただし初対面の炎軍の少女に尋ねられるまでは忘れていた話だった。
 「場所を教えようとしたらわかりましたもういいですからこれをお渡しいただけないですか私はまだ勤務がありますのでって言われて逃げられたの」
 渡された書類入れに目を走らせて、重要度が高いものなのかは判別がつかなかったけど表に書かれているのはいかにも少女らしい丁寧でこまやかな字。
 「…それは明日が怖い。ああそこらに置かないで持っててくれ。これからそっちの方にも水を撒くから」
 言われて邪魔にならないよう書類入れを持ったまま椅子からどいた。水を撒きながら移動してくる彼の視線が少し長い間自分の方に留まる。
 「何?」
 「見慣れない服だと思って」
 「そうね町の流行りとは少し違う形だから」
 「褒めてるんだよ。思ってたけど君はそういうお嬢さんみたいな服もよく似合う」
 軍装ではない彼の方こそいかにも育ちのいい、ゼスの古くから続く良家の子弟といったいでたちだ。
 「私のことはいいから手を動かして。その鉢溺れそうになってる」
 「と」
 やはり邪魔になってしまうようなので彼から離れて部屋の中を見渡した。彼なりの決まりごとに即して並べられたらしい鉢植えは花をつけるものも葉だけのものも水と窓から入ってくる浅い朝の光を受けて鮮やかだ。
 目に付いた鉢を覗いてみる。土に這うように低く生えた草の茎には爪半分ほどの大きさの小さい白い花が沢山並びその一つ一つに水滴が被っていた。
 「それ、気に入ってくれたかい?」
 水撒きは完了したらしい、じょうろを先ほどまで自分がかけていた椅子に置くと彼は横に立った。
 「かわいい花ね」
 「そんなに手はかからないし長く咲く奴なんだ。良かったら持って行かないか」
 「私には向いてないと思うわ。枯らしてしまったらかわいそう」
 「俺のところに置いておいてもこの先どうなるかわからないから言ったんだが」
 急な言葉の温度の低下に彼の方を向く。
 「…どういう意味?」
 「だから、今日俺達が揃って休みなのは千鶴子様は本当に最悪のことを想定してる」
 珍しく口にする言葉を慎重に選ぶ様子の彼は先日司令部で見たように随分ともの思わし気だった。
 「魔軍に総攻撃を仕掛けるって話でしょう?それも近いうちに」
 「知ってたのか?」
 その表情が揺らいで。どうやら真剣に驚いてるらしい。
 残りの魔軍の掃討は自軍でというのはゼスとしてせめてものプライドだし千鶴子の言葉は温情の理由付けばかりでなく掃討戦を始めた先のことをかなり冷徹に思考実験してのものだった。たとえ公然と語られることではなくても上層部の案として内々に検討されることでも伝わってくる何かはある。それらを感じ取ることもできないで軍にいるつもりはなかった。
 「あなたがわかるのに氷軍の将軍がどうしてわからないと思うの?私は目と耳を塞いで毎日過ごしてるわけじゃないもの」
 また何の覚悟もせずに戦場に赴いているつもりもなかった。先だってのガルティアとの不条理な消耗戦のように死神はいつでもどんな時にでも自由自在に姿形を変えて現れ、自分に生臭い息を吹きかけるものだしそれを跳ねのけられるかどうかは自分の強さばかりでなく不確定の要素に支配されるということは戦に身を転じてからの諦念の一つだった。今までは運が良かったのに過ぎず、そして自分でもわからないいつかはそれが尽きる日も来るのだと。
 「そうか、その通りだな。済まない」
 そして目の前の彼はそれだけのことを口に出すのをためらう位には自分とは戦うこととの向き合い方が違うということはそれなり長い時間の付合いの中で承知している。彼のものと自分のものは隔たりを経て交わうことはないだろうということも。
 深く息をつき、何かを振り切るかのように目を閉じ、開いて。そうするとサイアスはいつものサイアスだった。
 「…いいさ先のことばかり考えて深刻な顔してるのも俺の本分じゃない。ウスピラ、わざわざここに来たってことは今日の予定はないんだろ?これからデートしないか」
 「え?もう帰るわよ」
 「じゃあ俺の部下が君の休日を中断して申し訳ないからお詫びに昼飯でも奢る。まだ早いしそれまで町を歩いて回ろう」
 「…それって同じ意味でしょ」

 目を覚まし形ばかり顔と髪を整えると軍装を身に着けて待つ。
 出撃の日は体を巡る神経が切り替わってしまうようでただ座っているだけで音のない空気が耳を刺激し伸ばした首から背筋はひきつれるような気配がする。大部屋で出撃する仲間と共に目を覚まし他愛もない、これから戦場に赴くなんて全然関係ないような話を振られて頷き返していたこともあったけどいつの間にかこの鉛のような虚ろの時間を一人で過ごすようになって随分経つ。
 待つ。待つ。…待ち続けて耳が痛くなり始めたところでノックの音。
 「ウスピラ将軍お時間ですお願いします」
 開け放った扉の向こうの従兵に頷き返し杖を取り軽く握った。と、いつもは最低限のやり取りをするだけでも明るく和やかな彼女の様子は普段とは少々違った。何かを言いたそうに、でも戸惑うように。
 「どうかした?」
 「いえ」
 すっかりここ最近のぴりぴりした空気が感染してしまってるようで怯えたような視線を向けられて、それは彼女に背負わすには少し罪深いもののように感じた。
 「…ああ私がいない間にあれのことをお願いしておいていいかしら」
 部屋の片隅を指さす。脇机の上に置いた小さい花の鉢。強引に渡された鉢だ。
 実の話長く留守にする時は俺の従兵に世話を頼んでるけど大雑把なところがある。君に託した方が無事な確率が上がりそうだから少し情けをかけてやってくれ
 「人から預かったものなの。今日はもう水をあげてあるから」
 指された方向を見て従兵は一転、弾けるような笑顔になった。
 「はい、お任せください!私花は大好きですので」
 …それでこれはあなたに返したらいいの?
 「それなら安心ね。じゃあ行くわ」
 「…ご武運を」
 敬礼に送られて兵舎を出、そして何十回と歩き慣れた通路を経て荘厳なゼス宮殿の前に辿り着く。
 そうだなできれば君の手で直に。俺も自分で受け取るようにするから
 笑って答えた青年は司令部の扉の向こうにきっともう着いているだろう。
 その押し付けられた約束を守る為にまた戻って来ようと思うのも、それほど悪くはない気がした。

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