なつのこばなし・その2

 元々製薬会社が町をまるまる一つ買い取るなんてことが可能である程度に津川は良く言えばのどか、悪く言えば田舎だ。
 買い取られた町にその製薬会社のラボや附属の病院、また製薬会社の創立した学園といった様々な施設ができることにより田舎町は化学変化を起こしてよくある都市部の人口過密解消の為のニュータウンとはまた違った町に徐々に進化しつつあるけどその最終形もまだ漠然としている。
 そして山も間近な津川を出て高速道に乗ってしまうとほんのわずかな時間でまた景色ががらりと変わる。北方に山を、南方に海を控えた土地なので夏の鮮やかな山の緑から光を反射して輝く青い海への風景の切り替わりは見事なほどだ。

 平日なので対向車線を通過する車も少なく、しばらく海に視線を向けているとハンドルを握っていた兄が口を開いた。
 「…さっきからずっと見てるけど海が珍しいのかな?」
 呆れさせるほど長い間見ていたつもりはなかったけど以前兄は高速の運転はアクセルを踏んでハンドルを真っ直ぐ持ってるだけだから話し相手がいないと案外退屈だと言っていたような気がした。悪いことしちゃったかなと思いながら答える。
 「うん、今まで夏って泳ぎたかったらほとんどプールだったし波が寄せてきて砂浜があってしょっぱい海って久しぶりな感じかも」
 「叔父さん達と海に行ったりしなかった?」
 兄と一緒に暮らすようになって叔父さん叔母さんと暮らしていた時の記憶も申し訳ないながら薄くなってしまっている。でも二人は突然降って沸いた姪の養育と保護者という役割に二人なりに真剣に向き合ってくれた。苦手なこともあったみたいだけど。
 「それが実はね」
 ふふっと自然な笑いが漏れてくる。
 「叔父さんってかなづちなの。叔母さんも水着は恥ずかしいって。だから夏はいつもテーマパークとか山に連れて行ってもらったり…海に泳ぎに行ったのは小学生の時の自然学校位かな。後は友達とプール」
 「それはいいことを聞いた」
 「…?」
 兄とは会話がどうしてこんな風に繋がるんだろうと不思議に思ってしまうことが時々ある。離れて暮らしていた時間が長くて自分が細かいことを読み取れないのか兄に留学と就職先の土地の流儀が染み込んでしまっていてそれを自分が理解できないのかはどちらとも判別できない。
 「いいこと」が何にかかるのか聞こうとして兄の方を向くと、脇で何かがごとごとがさがさとやかましい音を立てた。グローブボックスの中だ。
 「ごめん、中に携帯を入れてるんだよ。多分ラボからだろうけど確認してくれないかな?休むからってちゃんと言ってきたんだけど」
 「うん」
 グローブボックスを開けると車検証や地図の中から兄の携帯を掘り出す。開くとメール受信のアイコンが出ていて杉田正剛とある。
 「お兄ちゃん、ラボじゃなくて正剛くんからメール」
 「正剛くん?随分珍しい人からだね。いやアドレス交換してるんだから珍しいって言うのも変か。でも正剛くんからってことはよっぽどなんだろうし…見てみてくれる?」
 「いいの?」
 兄が頷いたのでメール一覧の一番上、最新のメールを選択すると、
 「…ええと、
 件名:すいません総一郎さん
 本文:作業に手間取ってますので集合に遅れます。俺達は回収して貰わなくて大丈夫です。イザンと直接行きます。すいません
 …って。何のこと?」
 「正剛くんは昨晩ラボのメールサーバーの更新作業をしてた筈だけど。何かあったのかな」
 ラボのメールサーバー。これまた正剛の箱実での所属と繋がらない。
 正剛はイヅナの騒動のあれこれの後保安部から声がかかった。ただ正剛は己が保安部に所属することは箱実の秘蔵っ子である兄の宗親と兄の親友の高柳には言わないで欲しいと希望した、ということは兄とイザンとエリオットの三人が揃った席で伝えられた。宗親と高柳も知らないことを自分が教えて貰えるのは兄が保安部長のエリオットと親交が深くまた保安部員のイザンも自分とおつきあいしているからどうしても朝倉家と保安部の接点が多くなってしまうので、隠し通すよりは事情を知った上で口を閉じておいて貰う方が変にややこしいことをしなくて済むからという判断(「これまでのことを鑑みると晶乃くんには隠したところでどうせばれる」とエリオットはぶっきらぼうに言った)だからだそうだ。
 「正剛くんは保安部でしょ?」
 「そうなんだけど保安部としても入ってそうそう危険なことをしてもらうわけにもいかないし今は保安部とシステム部を行ったり来たりしてる。それで箱実のネットワーク全体のことを徐々に把握してもらう方針らしくて。それが結果的には保安部の業務とも関わってくるからね。正剛くんはプログラムだけじゃなくてハード周りのことも相当詳しいしシステム部の人に気に入られてるみたいだよ」
 「そっか、掛け持ちなんて正剛くんも頑張ってるんだね」
 これは何かと正剛のことを気にかけていたすぅ子からの情報だけどそうやって箱実の社員になり二年生になってからの正剛は真面目に授業に出ているし以前のようにクラスメイトとの間にぶ厚い壁を築くなんてこともしてないようで、そういうのは好ましい変化という奴なんだろう。
 「ちょっとそそっかしいけど飲み込みは早いし筋もいいって。それにイザンも正剛くんとペアになって色々フォローする体制になってる」
 そうそう今はイザンと正剛はルームメイトだ。イザンは同居人について語ることは少ないけどどうやら楽しく過ごしてるみたいなのは彼との会話の端々から感じられた。
 「…あれ、でも、まだ正剛くんって保安部に入ったこと宗親くんに言ってないの?」
 そんな秘密を伝えられたのもほんの春先の話。もう年の半ばを過ぎて盛夏なのに。

 朝倉家の日常として夕飯が済んだ後はテレビをつけて少しニュースを見るか、夜の時間を長く使いたいときはお風呂に直行してしまうけどその日は兄は自室からリビングのテーブルに移して置きっぱなしだったノートパソコンを立ち上げて手招きした。
 お皿の水切りを済ませ手を拭いて兄の後ろからノートパソコンのディスプレイを覗き込むと映っているのは不動産広告か何かなんだろうか、一軒家。コンクリート造りの無機質っぽい外観の画像とそれとは様子を変えてカントリー調の内装の室内画像が四つ。そのうち一つの画像では部屋の窓が開け放たれていてどうやらオーシャンビューなのをさりげなく示している。窓枠から覗くのは波も立っていないただ穏やかな青い海面だ。
 「ほらここ」
 と、ディスプレイを指し示すと兄は言った。
 「ここ?…えっと、お兄ちゃん家買うの?」
 意図がよくわからないものだから聞き返すと兄は笑った。
 「違うよ、ここは社員限定の箱実の保養所。管理人さんは常駐してなくて実質貸し別荘みたいな感じになるのかな。周囲にはあまり面白いものはないけど海岸まで歩いて五分なんて立地だしこの時期は結構人気があるんだよ。空いてる日を見つけたんだけどどう?他の皆も誘って」
 兄が画面をスクロールさせるとカレンダーが表示されていて、なるほど予約が入っていることを示すらしい×印がついていない日がある。皆と夏の海。それはそれは魅力的なのは確かだ。けど。
 「うん、いいと思うけど…でも私遊び過ぎじゃない?」
 イザンに指摘されてしまったように志望校は三年生になってからの成績の伸びもあって合格圏内だった。それもボーダーライン上じゃなくてゆとりがあるから考えればいいのは現状維持だけ。でも成績が理由ではないぼんやりとした不安はずっと自分の内に深く曖昧な形で刺さったままで、振り回されるよりはと目先のことに集中する方を選んだ。そういう感情に囚われていることはあまり表に出したくなくて兄の鈍感さはありがたい位だったけどでも先日打ち明けてちょっと気持ちが軽くなったのも本当だった。…打ち明ける相手のことさえ考えなければ。
 そう先日といい最近は結構遊んでいるような気がする。兄ももうしばらく忙しい時期は続くと言っていた筈。
 「監督者を自称するなら監督者らしいことをしろって叱られちゃったからね。いいからここら辺で半日だけとかじゃなくて思い切り遊んで来よう。気になるなら問題集の一式も持参したらいいし」
 「…え?」
 「それに二日の休憩で半年後の受験が全て駄目になるならそれはそもそも最初から無理な計画だったってことだし」
 「あーお兄ちゃん、今受験生が一番ぐさっとくること言ったー」
 思わず手刀で兄の肩を軽く叩くと兄はまた笑う。
 「そう?」

 全国的に有名で大きなショッピングモールのあるような別荘地とは違って近場の人が夏を過ごしに来るような海と風光明媚が売りの場所だからね。
 という兄の説明通り、高速を降り地道を走って着いた海沿いの町はこぢんまりしていた。道の照り返しを受けながら浮き輪を担いで歩いている親子連れの姿も目につくけれど観光客じゃなくて地元の人のようだ。こういうところによくある夏季限定ですって感じのお店もない。ただ漁船じゃない小型船舶やヨットが沢山係留してある波止場があって、それだけが観光地っぽい雰囲気のところだ。
 保養所の管理を委託しているという町の不動産屋に立ち寄ると鍵を受け取り、それから適当なお店で二人でちょっと早い昼食を取った。車で道を戻り側道に入って登ってゆくと小高くなっているところに一般の住宅とは感じの違う家が何件かまばらに並ぶ一角があり、そこからさらに少し離れた場所に兄のパソコンで見たままの建物はあった。コンクリートの打ちっぱなし二階建て。二階部分のベランダにロートアイアンのフェンスが唯一アクセント。
 車を降り兄は鍵を取り出すと玄関のドアを開けた。
 「前の予約の人が昨日の夕方のチェックアウトだったから早い時間のチェックインも大丈夫って聞いたんだけど」
 兄に並ぶと中はパソコンの画像とは印象が違って結構広々とした造りのようだった。玄関ホールから覗く部屋のドアは四つ。外観が無機質なのはこれで勘弁してやって下さいねという感じで白い塗りの壁一面には明るい色の腰板が貼ってあり、腰板と同じ色のフローリングには二階から強い夏の光が差し込んでその加減によって複雑な形の影を落としてはその境界の輪郭を慌しく変えている。
 兄は靴を脱いで上がると一番手近なドアを開けた。中を見渡して。
 「どうやらその言葉に偽りなし、と。さて後はお願いしていいかな」
 「え、もうそんな時間?」
 宗親達を最寄の駅まで迎えに行く約束。思わず携帯を取り出そうとして―そうだ今日の服はポケットないから自分のは車に積んであるバッグの中。
 「正剛くんはあんなこと言ってたけど駅からここまでの歩きはちょっときついから連絡取ってみるよ」
 車に戻ってバッグを二つ、キャリーケースを一つ降ろしてくると兄は床に下ろした。
 「晶乃は窓開けたりしておいて。もしもあまり遅くなるようだったら携帯鳴らすから」
 「うん」
 ドアが閉まりエンジンの音が聞こえて遠くなったので自分のバッグから携帯を取り出して一階の端の部屋から順に巡っていった。玄関に近い側の二部屋はベッドが二つづつある洋室。その奥のドアは広くて使いやすそうなシンクを備えたリビングダイニングキッチンとこれまた広いバスルーム、トイレ。ホールに戻って吹き抜けの階段で二階に上がると階段を挟んで二つのドア。
 「…わあ」
 東側のドアを開けて思わず声が漏れた。オーシャンビューのあの部屋はここ。この家から海への間の視界を遮るものが自然物以外何もない。どうやら別荘用地として区画されてる土地の一番東端にあるのがこの建物のようだ。一階の東側の部屋から海が見えなかったのは敷地の低木が遮ってたからだと窓に寄ってわかった。車に乗ってたりしたから距離感が掴めなかったんだけどこれなら海岸まで歩いて五分って話もそうだよねって納得できる。
 窓を開けると潮気を含んだ風がゆるゆると吹き込んできた。南側の窓は掃き出し窓で外から見えたベランダになっている。こちらもコンクリートそのままでなく床には木のパネルが敷いてあって素足で歩いても気持ちよさそう、というか丁度いい具合に素足。
 ベランダに出るとルーフの陰になっているせいで床は意外とひんやりしていた。兄が車で出て行った道の方を見下ろしてみてもこちらの方に入ってくる車の一つもない。
 宗親と高柳と、それにできれば正剛とイザンも連れて戻ってくるのにどの位時間がかかるだろう。もう少しのんびりしてても。
 スカートの裾を膝裏にたくしこみ窓際に腰を下ろして軽く目を閉じるとごくごく間近いところから蝉の声が聞こえてきた。この鳴き方はクマゼミ。こんな大音響を聞くのも久しぶり。
 …久しぶり?
 目を見開く。
 もう七月も過ぎたんだし久しぶりのわけがない。一学期が終わる頃は蝉の声を聞きながら下校してた覚えがあるし、そうそれに毎日のお買い物に出たときにだって。聞いてた筈だけどただ自分の耳を通過してただけでちゃんと認識してなかったってこと?蝉の声にも注意を向けられない程ゆとりがなかったのかな。
 ―晶乃って随分インドアに引きこもってたみたいだし。
 …本当にその通りだったみたい。引きこもるっていうのは単に体の置き場所のことだけじゃなくて。

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