ガンパレードマーチ・その8

※未完※

 乱れた髪を一振りして床に手をつくと、舞はゆっくり体を起こした。
 (…しまった)
 部屋の中は明るく、カーテンの隙間から光が射し込んでいる。
 速水を部屋に誘ったので、せいぜい見苦しくない程度に整えておこうと殊勝なことを考えたのは昨日、学校から帰ってきてからだった。
 しかし、彼女はすっかり忘れていた。
 自分の育った一族ではいかに戦い勝つかということについての知識の伝授はあったが、掃除だの整理だのという日常の些末なことについては全然レクチャーはなかったのだ。
 床に散乱する本。クリーニングに出さないといけない制服。ミニキッチンの乱雑な食器類。
 芝村の一族に絶望という文字はない筈だったが、芝村の末姫は絶望的な気分になった。
 それでも気をなんとか取り直して、本を一つ一つ取り上げながら棚にしまい始め、棚の半分が埋まった時点でどうやら意識がとぎれたようだ。
 昨日懸垂に励んだのが効いているらしく、カーテンを開ける腕がきしむ。
 振り返って時計を見ると八時を指していた。速水は昼過ぎに来ると言っていたから、あと四時間。
 茶の一つも出そうとか、そんな暢気なことを考えていた自分が恨めしくなる。
 「…とりあえず、ごみをまとめるか」
 そうひとりごちると、舞はミニキッチンに行ってシンク横の引き出しを開けた。
 そこに入っていると思っていたごみ袋はきれいに姿を消していた。思わず舌打ちが出る。
 借りにゆくのと買いにゆくのと、二つを充分吟味して買いにゆくことにした。
 髪にざっと櫛を通して顔を洗い、財布を掴んで玄関のドアを開けると、そこにはののみがいた。手にじょうろを持っている。
 「あれぇ、まいちゃん、おはよう」
 ののみは舞の姿を見ると、首を傾げた。
 「どうしたののみ、こんな朝早くから」
 「ののみね、これからまえのにわのおはなにおみずをあげにいきます。まいちゃんはおでかけですか?」
 舞はぽんと手を打った。

 速水は約束した通りに、昼過ぎにやってきた。
 「こんにちはぁ」
 ドアの向こうから声がする。
 「鍵は開いているぞ、勝手に入るがいい」
 「はーい」
 玄関に姿を現した速水は、迎えに出た先客を見ると笑いかけた。
 「いらっしゃーい」
 「あ、ののみもお客様なんだね。今日は」
 「そうなの、あっちゃんがくるからまいちゃんといっしょにおへやをかたづけてたのよ」
 「そうかぁ、偉いな」
 速水は靴を脱ぐと、かわいそうに思えるほど力をこめて机をを拭いている舞に歩み寄った。後からののみがついてくる。
 「お招きいただいてどうもありがとう」
 「ああ、いや、なんだ、ゆっくりしていけ」
 舞は何故か顔を上げなかった。こっそりため息をついて、ののみに声をかける。
 「ののみはお茶の準備はできるかな?」
 「うん、できるよぉ。さっきもね、まいちゃんとかいにいったから」
 ののみは軽やかな足取りでキッチンへ行くと、シンク脇の紙袋をがさがさやり始めた。
 手慣れた様子でティーカップをひとつふたつみっつ、と並べてティーパックを入れる。
 速水はののみの横に立つと、手に提げてきたタッパーを開けた。
 「ケーキを作ってきたから一緒に食べようね」
 「けーきもあるの?うれしいなあ」
 「そうそう、中村に美味しいチーズケーキのレシピを貰ったから。女の子は体重を気にするでしょ、ヨーグルト入れてカロリー落として」
 「あっちゃんってすごいねー」
 「ののみは頑張ったから一番大切れにしようね」
 速水は手入れの悪そうな包丁を取ると、三つに切り分けた。
 熱湯を注がれたカップから香気が漂う。
 「はーい、お茶にしましょう」
 速水は所在なくふきんを掴んで立っている舞にカップを手渡した。
 何せ寮の狭い部屋だ。舞は机の椅子に、ののみはベッドに、速水は床にとめいめい腰を下ろして、紅茶をすすった。ケーキにもおいおい手が伸びる。
 「…ふん、上手く作ったものだな」
 「あ、美味しい?初めてにしてはよく出来たと思うんだけど」
 「初めて?」
 「人と食べようって目的がないとなかなか作れないし、材料も高いし…女の子に部屋に来いなんて言われるの久しぶりだから奮発してみたよ」
 「あっちゃん、あとでどうやってつくるかおしえてね。ののみこういうのだいすき」
 「うん、後で一緒に作ってみようね」
 笑みを交わす二人を見て、舞は目を細めた。
 「そなたら、そうしていると本当の親子のようだな」
 「そうなの、あっちゃんっておかあさんみたいなのよ」
 「…この場合父親って誰なんだろう」
 速水はぼそりと呟いた。
 「だかーら、どうして人の頬をそんなに頻繁に引っ張るかな…痛いです」
 「今変な想像をしただろう」
 「してないしてない」
 「嘘だ」
 舞の指先に力がこもる。見かけこそ小柄な少女ではあるが、その実彼女は自分を襲った暴漢を逆に投げ飛ばす位の馬鹿力がある。
 「しーてーまーせんー」
 「まいちゃん、あんまりほっぺをひっぱると、のびてもとにもどらなくなるのよ」
 たしなめるののみの口調の意外な厳しさに、舞は慌てて手を離した。
 「なかよくしないとめーなのよ。めー」
 「そうだな、私が悪かったようだ。速水は私が父親役などとは言っておらぬ」
 速水は痛む頬をさすりながら紅茶の最後の一口を飲み干した。
 「それで、舞」
 「なんだ」
 「何か用事があったんじゃなかったの?」
 「用事?」
 「君が何の用事もなしに僕を呼ぶわけないと思って」
 二日前。
 舞は速水を前にして語ったものだ。
 自然休戦期の前に徹底的に幻獣の勢力を削ぐ必要があると。熊本市内の幻獣を一点に集めて撃墜しようと。
 その語り口から彼女が既に、何らかの工作を巡らせているのがわかった。
 彼女はいつも悩まない。ただ必然的な行動と必然的な結果があるだけだ。
 それなので速水もあえて深くは尋ねなかったのだが、昨日急に部屋に来いと言われたときには、彼女の企みごとの補足でも聞かされるかと思ったものだ。
 デートは何度も、キスも一応済ませたというのに何故かいつも雰囲気がぎこちなくて、彼女は奇妙にうちとけてくれなかった。キスした翌日だったか、彼女が自分をカダヤにするとかなんとか顔を真っ赤にして言うのでそれはどんな意味かと聞いたら怒りだしたのでまだ教えて貰っていない。こういう状況に慣れていないのかもと慣れてもらうべく恋人として親愛の情の一端を行為で示せば人前でそういうことをするなとまた怒られる。
 彼女にとって何か必要なものが自分には欠けているのかとちょっと悩み始めた時の部屋への招待であり、しかし来てみたらののみがにこにこ笑っているしで、速水はますます舞を量りかねるのだった。
 「用事などない」
 舞はきっぱりと言い放った。
 「そなた、もしかして今日は何か先約があったのか?それならば言えば私も無理強いはしなかったのに」
 「…いや、なかったけど。ね」
 速水は肺の中一杯の空気を吐き出しつつ力無く笑うという荒技をやってのけた。
 「それならお茶飲み終わったら外へ出ない?いい天気だよ、今日は」

 結局舞の部屋を出た後は三人は新市街へ出て、そこらを歩いて半日を潰した。
 もう既にアーケードに入っている店も半分方シャッターを下ろしていたが、それでもののみは速水と舞の手を取ってはしゃいでいた。夕飯を食べた店で舞の腕によりかかって寝てしまうまで。
 寮へ帰る道を二人は歩いていた。長い影が道に落ちる。
 「ののみ、楽しそうだったね。よかった」
 ののみを背負う速水の後ろ姿に舞は声をかけた。
 「ののみが笑うのを見るのは久しぶりだ」
 「え?」
 速水は振り返った。月光が彼女の背中から差し込んでいるので、表情がよく見えない。
 「最近、出撃の連続で忙しかっただろう?皆。」
 「…ああ」
 「しばらく、ののみを構う人間が誰もいなかった。あのぼんくら瀬戸口ですら指揮車の整備手伝いに駆り出されていたし。今日はそなたが来てくれてよかった、厚志。私ではあんな風に…ののみを笑わせられない」
 「…」
 「折角の日曜なのに済まなかった。そなたも疲れているだろうにな。そのうちこの埋め合わせはなんとかするほどに…」
 声が不意に小さくなる。
 速水は薄暗い中でもよく見えるように、大きく頷いた。再び前を向いて。
 君は一体何を企んでいて、そしてこれからどうするつもり?
 その言葉が喉につかえて出てこない。
 自分の恋人は何を背負おうとしているんだろう。
 ふっと足を止める。舞もいつの間にか足を止めている。
 「どうかした?」
 「…いや。時々自分の語彙の少なさを腹立たしく思うことがある」
 「じゃあ後で一緒に勉強しようね。ののみが持ってる辞書で足りるかな」
 舞は駆け寄ると速水の頬を遠慮なく引っ張った。泣き笑いのような顔をしていた。
 「ばか。そなたのそういうところ、嫌いだ」
「痛いよ、舞。いたいいたい痛い」
 「痛かろう。痛いようにやっているのだ、私は」
 頬から頬から手を離して、舞は笑った。しかしすぐにきっと顔を引き締めると、速水の顔を真っ直ぐに見据えた。
 「厚志」
 「何?」
 「…そなたは私と一緒に来るか。一緒に血反吐を吐き、人から罵倒され、共に人外のものに堕ちる覚悟はあるか」
 速水は舞の言葉を一つ一つ、頭の中で繰り返した。…彼女は自分を、試そうとしているのだろうか?何らかの形で。
 瞼を閉じてしばし考え、再び目を開いて。舞は相変わらず、怖いくらいの真剣な表情で見つめている。
 「君と一緒に行くのは全然構わない、反吐を吐くのも罵倒されるのも多分平気だと思うけど、人外のものというのはその正体を知らないとなんとも言えないよ」
 「…ふん、優等生の答えだ」
 舞は唇を皮肉に曲げた。
 「あ、でも猫とかだったら楽しいかもね。毎日昼寝して好き勝手やって暮らすの。お互い毛繕いしたりして」
 「は?」
 「人ではないもの、つまり犬とか猫とか」
 「たわけが!」
 舞はポニーテールをくるりと翻すと、速水の先に立って駆けだした。
 寮に着くまで、着いた後も何も喋ってくれなかった。

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