ガンパレードマーチ・その3

 舞は走っていた。
 自分の走る速さがもどかしいほど、廊下の角を曲がるのが煩わしいほど、それはもう一生懸命に走っていた。
 ドアを開け放ち、青々とした芝生の庭に佇む人影を見つけると、思わず大声が出る。
 「父上!」
 その声に、懐かしむように蒼天を見上げていた人物は振り返った。
 「舞。息災であったか」
 口元をほんの少し、歪める。きっと笑っているつもりなのだろう。とても不器用な笑い。
 息を切らせて駆け寄った舞は、父の姿を見上げた。
 「はい!最近は私も体が丈夫になりました。去年の冬も風邪一つひいておりません。それに父上に貰った本も最後まで読みました」
 「そうか」
 もっと話したいことが舞にはあった。背が伸びたこと。勉強の飲み込みが早いと褒められたこと。それからそれから。…それに今度は父上はいつまで家にいらっしゃる予定なんだろう。
 しかし父は彼女の横をすっと通り過ぎると、屋敷の中へ消えてしまった。
 舞は唇をかみしめると、その姿を見送った。追いかけたり、あるいはまとわりついたりするのを父は好まないことを娘は幼い身ながらよく知っていた。

 かように娘にはあまり構わない父親ではあったが、ごくたまには娘を膝に抱いて話をしたりすることもあった。
 「…というわけでドナドナというのは牛飼いが牛を追う歌なのだよ」
 「市場に連れてゆかれた牛はどうなるのですか」
 父はしんねりと顔を娘の顔に近づけると、尋ねた。
 「聞きたいか?」
 微に入り細に入り聞かされた舞は、べそをかいた。

 「ドラキュラは元々ヴラド・ツェペシュ公がモデルなのだよ」
 「どんな人だったのですか」
 父は口の端を歪めると、囁いた。
 「聞きたいか?」
 とてもリアルな描写に、舞はその晩うなされた。

 「ネコヤナギの新芽を摘んで、真綿で包んで一晩おくと本物の猫になるのだよ」
 「本当ですか?」
 父は舞の肩に手を置いた。
  「本当だとも」
 舞は騙された。

 「世界の姿とはただ一つだけではなく、いくつもの世界が層をなして重なりあっているのだよ」
 「本当ですか?」
 父は頷いた。
 「本当だとも」
 舞は信じた。

 そんなお茶目な父の薫陶をあつく受け、舞はやがて10歳を迎えた。
 いつものごとくふらりと屋敷に立ち寄った父は、我が娘に尋ねた。
 「誕生日の祝いは何が良いか?」
 舞はにっこり笑うと、言い放った。
 「はい、世界が欲しいと思います」
 それは彼女なりの自覚の発露だった。
 普段は滅多なことでは表情を崩さない父はそれを聞くと眉を顰めた。
 「そうか、世界か。そなたなかなか気宇が壮大だな」
 そう呟くなり、その日の夕方には父はまた姿を消した。
 父が娘のために世界を手に入れられたかどうかは、娘はついぞ知ることがなかった。
 しかし娘は父の手の厚さと重さと、そして言葉をそれからずっと覚えていた。
 「それでこそ芝村の娘だ。私がそなたを芝村に迎えた甲斐もあったようだな」
 という。
 
 娘が後ほど、速水厚志という伴侶を得て世界のことごとくを手に入れたのを、父は草葉の陰で笑っていたとかいないとか。

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