イザンと晶乃・捏造エンド編

 校舎内に入った時、あれほどけたたましく鳴っていた警報はいつの間にか止んでいた。
 TTを巻き添えに屋上から落下していったイヅナの姿を求め自分の先を行く晶乃を追うと、TTがどんな風に自分達を追い掛け回してきたのか、その痕跡は埃の舞う校舎内のそこここに、ぞっとするほど生々しく刻まれていた。
 TTが強引に通過したせいで大きくえぐられている廊下の壁。床のタイルははがれその下のコンクリにはひびが入っている。校舎の床の対荷重量は頭に入っていなかったがそれでもこの手の建物が持ち得る平均的な値なのだとすれば、TTの蹂躙で底が抜けたり陥没していないのが不思議な位だ。
 晶乃に先に進ませるのは危険。そう判断するとダッシュで彼女の腕を捕まえた。
 「晶乃、止まれ!!」
 振り返った晶乃は泣きそうな顔をしていた。
 「…イザンくん、でも早くイヅナのところに行かないと」
 なんだってあんなのの為にこんな場所を急いでそんな顔するんだとムカつきながらも晶乃の瞳を見据え、言葉が届くように棘を含める。
 「あいつのとこに行くのは止めやしないけどここは危ないんだ、床が脆くなってる。下手したら晶乃の体重位でも床にとどめ刺すかもだからボクが安全に外に出してやるよ、晶乃を」
 顎をしゃくり、床のひびを指すと晶乃の顔色は変わった。本当に何も目に入ってなかったらしいがこれ以上無鉄砲に駆けてゆくこともなさそうだ、奇跡的にガラスが割れてない窓をみつけて-どうやら窓枠も歪んだらしくて随分重かったけどそれは無理矢理に-開け放ち見下ろすと、校庭の朝礼台があった辺りに潰れひしゃげて無残な姿になったTTと、それとは正反対に憎たらしい位完全な姿のイヅナの白い影があった。
 それにようやく騒ぎが周囲に知れたらしい、次第に大きくなる複数の車のエンジン音や、おそらく隣接している寮の寮生達がこぞって外に出てきたのだろうざわめきも耳に届きはじめた。
窓枠を乗り越え、キャットウォークに足を下ろすとそこから晶乃に手を貸して彼女の体を抱え上げる。
 「いいか、ちゃんと掴まってろよ」
 「うん…これでいい?」
 晶乃の腕がしっかり自分の体を掴んだのを確認し、キャットウォークを蹴り暗闇の虚空に彼女共々体を躍らせれば、湿っぽい夜の空気にTTが発しているらしいオイルの臭い、ショートした電子部品の形容しがたい刺激臭が混ざって鼻を突いた。…一瞬の後、上手いこと着地の衝撃を散らして地面を踏みしめると晶乃の体をそっと下ろす。
 晶乃は自分の背に回していた腕を解くと慌てて乱れたスカートの裾を直して言った。
 「あ、ありがとう、イザンくん」
 「いいから行けよ。そろそろ総一郎達も来るから」
 校舎の正門方向から聞こえてくるエンジン音にはエリオットの車のもの-防弾仕様に改造してもその分の加重に耐え機動性を確保する為に大きいエンジンを積んだ車を選ぶのが保安部員のお約束だ-もあった。おそらくは総一郎と一緒だろう。
 頷いて駆け出す晶乃の背中が遠ざかり、けれどその足は引き止められた。にわかに響いた
 「…晶乃…っ!」
 という総一郎の声で。
 総一郎が晶乃のことを普通の、兄妹という関係では表現できず推し量れない位に大事に思っているのは把握しているつもりだったけれどたった今この瞬間、まさしくそれを目撃してるのだと思った。
 普段から何考えてるのか掴みづらいことこの上ない総一郎が明らかに取り乱して、正門からはほんの短い距離なのに息が乱れる位急いで走ってきたんだろう、晶乃を呼んだ声だって完全に掠れてて。こんなわかり易い総一郎は滅多に見られるものじゃない。これは晶乃という要素がなければ絶対に成立しない光景なのだ。
 「お兄ちゃん…!!」
 引き寄せられ、晶乃はすっぽりと総一郎の腕の中に納まった。
 「ごめん、助けに来られなくて…」
 「うん…私は大丈夫だよ、イザンくんがずっと守っててくれたから…それにね、またイヅナが助けてくれたの」
 「そうか…っ…よかった…本当に…晶乃…」
 晶乃をかき抱く総一郎の目の端に溜まっているものが何なのか判ると、自分がとんでもなく悪趣味な覗き見をしているような気分になって背を向けた。嫉妬位はしてもいいかもしれないがあれを茶化したり小馬鹿にしたら自分はただの嫌な奴になってしまう。
 兄と妹のそれから更に二言三言のやりとりを右から左へ聞き流し、そろそろいいかと再度二人を振り返った。
 「…で、ボクの方に労いの言葉はないわけ?総一郎?」
 そして晶乃を腕の中からゆっくり開放し、自分の方に向いた総一郎の表情は、既に「お兄ちゃん」のものではなく完全に、完璧に、朝倉総一郎のものだった。
 「…ああ、イザン。話は聞いたよ。さっきは妹を守ってくれて本当にありがとう」
 一見にこやか、けれど朝倉総一郎という人間とのつきあいが長い自分はよく知っている、その顔も言葉も決して総一郎の心を素直に映す鏡ではないことを。
 「…でも、これも君の『仕事』なんだよね?」
 案の定飛んでくる絶対零度の捨て台詞。夜中に妹を連れ出したのを怒ってるんだろうけどなんて言い草だ。
 「ば、バカ言うな!ボクが晶乃を守ってるのはもう仕事なんかじゃなくて…っ!」
 返す刀で応酬し、そこで心に何かがすとんと落ちた。
 勿論仕事じゃない。
 眠れないついでに寮を抜け出し、寮から近くもない晶乃達のマンションまでふらふら歩いてゆき、まだ晶乃の部屋の明かりが点いてるのを見て思わず電話したのは。先日負った傷の治りも完璧ではないのに、TTが晶乃に実際的な危害を加えることはできないようプログラムされているのは知っているのだからもう少し上手く立ち回ることもできた筈なのに、晶乃を抱えて逃げ回ってきたのは。
 呼び覚まされた記憶は普段通りの総一郎応対用の皮肉混じりな口調には繋がらず語気を弱めた。
 「まあ…ボクはこれを一生の仕事にしたって構わないけどさ」
 今日という日がそうだったように、やっと見つけたただ一つの存在に対して、自分がこれからどうしたいのか、何ができるのか考えて何度か眠れない夜を過ごしてきた。あの日箱実付属の病院で目が覚めて以来自分には遠すぎて、そういうものが元々人間には備わっているのだということが理解できなかったけれどとうとう思い知ることになった感情が原因で。
 …それはここ小一時間の嵐のような騒動の中では差し当たり引っ込んでいたけれど。
 はからずも口を突いて出た言葉に、晶乃の瞳は大きく見開かれた。…ほんのわずか、総一郎の眉が上がる。
 「え?今、何か言った…イザンくん?」
 「なッ!何でもないよ!!」
 総一郎は晶乃の肩に手を置いた。
 「…それで、イヅナは今どこに…?」
 言われて、晶乃は指差した。闇の中浮かぶ白い影。
 「…あ、こっち…」
 総一郎と晶乃は連れ立ちイヅナの方へ向かう。そしてまた、二つの人影が息せき切ってこちらの方へ近づいてくるのも見えた。杉田宗親と高柳肯だ。あの二人にはまだ自分の姿を見られるわけにはいかない。
 (総一郎、また後で)
 総一郎の横顔に軽く手を振るととりあえずこの場を退散することにした。正門方面に回ると到着した箱実の保安部員が野次馬の生徒達を退けて立ち入り禁止のテープを引いている。
 決して十河の自律機動車輌が善良な高校生二人を追っかけまわして校舎を破壊してその挙句白馬に乗った王子様ならぬ白狐が現れて十河の悪者を成敗してくれましたなんて話は公にならないだろう。きっと箱実開発の機材が夜間実験中動作不良で爆発を起こしたとかそんなのがほんの少しニュースになってお終いだ。
 イヅナに関しては後は保安部と総一郎達でなんとかすることになるだろうしTTの扱いは難しいがこういう時こそ普段人をこき使ってぬくぬくやってる上層部に苦労して貰うべきで。
 何食わぬ顔で野次馬の中に紛れ、すっとぼけて学園の敷地から追い出されると合点がいかない様子で寮へ戻ってゆく生徒達の群れからさり気無く離れてラボへ足を向けた。
 イヅナ捕獲の騒動でここ最近ずっと慌しかったけれどそれもようやく区切りがつく。何にせよ今晩は随分長くかかりそうだ。

 晶乃はイヅナがまるで人間がそうするようにその身を(いや、その機体を)呈してTTから自分達を守ったのだと証言した。
 それは以前から予期されていたイヅナの中枢部に組み込まれている有機モジュールの劣化とはおよそ反比例した行動で、またぞろコマンドに反した行動を取るのではと警戒されたがこれまで散々逃げ回ってきたのが嘘のように大人しくイヅナは輸送車のコンテナに収まりラボまで搬送された。
 イヅナが電源カットされ、扉付近の警備員が増員され不在の間に電子ロックがイヅナ未知のものに取り替えられたハンガーに格納された時点で遅いことでもあるし本格的なイヅナの解析は明日以降に持ち越しと、杉田宗親と高柳肯は半ば強制的に寮に帰された。晶乃も同様だ。
 けれど総一郎は同じように自宅のマンションへ帰りベッドに倒れこむわけにはいかなかった。
 晶乃とイザンがTTに追われている間、総一郎と宗親と高柳の三人は保安上箱実の一部の人間しか知り得ない筈の地下通路でTTの開発責任者である十河恒人と対峙しており、総一郎がその時十河と出会った地点までの誘導を率先して請け負った為だ。
 十河はイヅナの軍のトライアル参加から始まった一連の騒動の首謀者であると自ら認め、姿を消した。そんな言い逃げを箱実が看過する訳がなく、保安部は十河の追跡に最大限の人員を割くことになったのだった。

 「…総一郎…総一郎!!」
 乱暴に肩を揺すられて、はっと我に返る。
 数度目をしばたき自分の肩に触れていたのがイザンであるのを認識すると、今自分が居るのがラボの自分のデスクであることや外に出ている保安部員達の報告を聞く為に待機していたことをじわりと思い出していた。
 「…ごめん、ちょっとうとうとしてた」
 冷暖房完備のフロアなのに覚醒の一瞬、全身に嫌な感じの汗が吹き出たのを感じる。まさかまた風邪でもひいただろうか。
 「だから言っただろ、デスクワーク専門の人間が居たってすることなんてないんだから家帰って寝ろって」
 外から帰ってきてこちらに直行してくれたらしい、装備品のジャケットを脱ぎながらイザンは言った。
 「皆が寒い思いして駆け回ってるのに僕だけそんなことできないよ。それより君は大丈夫なのかい?イザン」
 保安部員であるイザンはTTと派手に追いかけっこをした後、一通りの事情聴取を済ませるとそのまま十河の追跡隊に組み込まれていた。イザンのそんな様子を見たこともラボで待機していた理由でもある。仮にも妹を守った人間が寝ずに任務に就いているのに自分だけ安穏としている訳にはいかない。
 頭を一振りしてデスクから立ち上がるとフロアの隅にあるコーヒーサーバーの前に行き、カップに半分程黒褐色の液体を注いで飲み干した。
 イザンは空いているデスクの上に座ると、大きく伸びをした。
 「そやって起きてようって意気込みだけは立派だけどね、ボク達には三時半付で交替じゃなくて解散の命令が出たよ、残念ながら。総一郎にはそれを言いに来た」
 「ええ、そうなの?」
 誘導を請け負ったとき、飛び交う現場同士の状況報告の邪魔にならないようにと呼び出し音をオフにしたままだった携帯を思わず取り出し、時刻を確認すると三時三十五分。
 「十河は監視カメラが殆ど配備されてない山側の通路から脱出したみたいだ。それ以降の足跡は掴めないし山越えちゃったんだとしたら箱実の土地じゃないんだから荒っぽいことはできないし時間的に言ってももう捕まんないんじゃないのって判断」
 つまらなそうにイザンは肩をすくめた。
 「…そうか。エリオットは?」
 エリオットとは保安部員を地下通路に誘導した後別れてそれきりだ。まあその前に危なっかしいことはするなと言ったろうと宗親と高柳の分も含めて絞られたが。
 「エルはダメ元で上の方に噛み付いてる。どうして十河の人間が箱実の地下通路を知ってて迷いもせず逃げ出せたんだって。表に出せない取引でもしてるのかって。上が頼りになんないからって十河をとっ捕まえて直接公安に突き出したかったみたいだけどできなかったから最後の手段でさ」
 「それは僕も考えたけど…そんな無茶して大丈夫なのかな」
 一旦はテクバレから出たとゲートの通行記録にはある十河がどういう手段を使ってか再度テクバレに舞い戻っていたこと、そして、おそらく偶然ではなく地下通路に潜入してそこからTTに晶乃を襲うコマンドを発していたこと。どんなセキュリティにも穴はあるものだけれど上手くことが運びすぎている。内部に相当詳しい人間の介在を疑わずにはいられなかった。
 そう、今までは十河を追求さえすれば全ては解決すると思われていた。イヅナの脱走事件とそれへの正剛の関与については大方その通り、けれどここにはもう一つ、ぼんやりとだが第三者の気配がある。統一された犯人像を求める余り、事件の全体が掴めなくなっているとエリオットが簡潔に纏めて言ったのはいつの話だっただろうか。
 …第三者。
 自分で思いついた言葉に違和感を感じて、ふともう一度携帯を開けてみた。
 「そういう偉い奴等の話合いになっちゃったらもうボク達の出る幕なんて全然ないじゃん、後は狐と狸で好きに化かし合って貰おうよ。今回のことは全部恒人おじさんの仕業ですーってことにしといたら格好だけはつくんだから」
 「…君はそうやって早くこの事件が片付けばいいと思ってる?」
 「そりゃ折角の逢引を情緒のカケラもない鉄の塊にぶち壊しにされたら誰でもいい加減うんざりするって。いい雰囲気だったのに」
 いい雰囲気、に無茶苦茶含みがあった。
 「そういえばイザン」
 「何」
 イザンの真前に立つと、なんとなーくイザンの全身を検分する。
 イザンは過去のある出来事(それが自分とイザンが出会ったきっかけだった)が原因で体の諸器官を意図的に制御する能力を身につけており、それによって職務上都合が良い同年代の少年(ひょっとしたら少女も含むかもしれない)より大分小柄な体格を維持している。それなりに整った顔立ちではあるが例えば宗親のように、明るく賑やかで集団の中でぱっと目立つタイプではない。学園でイザンがどんな感じに周囲の人間と接していたのか想像はつくけれどそれらと晶乃の異性の好みとがどうやったらマッチするのかちょっと理解不能だ。勿論妹とは何年も離れて暮らしていたのだから自分の知らないことなんて山ほどあるんだろうけど。
 「不思議なんだけどどうしてイザンなんだろうね?宗親くんとか高柳くんならまだわかるんだけど…警護する立場の人間が警護対象と仲良くなるって安っぽい映画じゃあるまいし」
 「現実ってのは虚構を上回るんだよ、知らないの総一郎?それにね女心ってとっても複雑なんだよお兄ちゃん」
 おどけてイザンは晶乃の口調を真似てみせた。結構上手いからタチが悪い。
ああそうだ僕はイザンに腹を立ててる。いつの間にか晶乃と仲良くなり、遅い時間に呼び出しても晶乃が断らず応じる位になってたことに。
 両手を伸ばすと、むにょっとイザンの頬をつまむ。
 「イザン、僕は君にあんまり好かれてないのはわかってるつもりだよ」
 多分その根っこにはイザンの、自分のような職種の人間に対する不信がある。イザンの経歴を考えれば仕方がないこととも言えるけどそれとこれとは別。釘を刺さずにいられるほど心穏やかではいられない。
 「…ひゃめれほういひほう、はほほひふっ やめて総一郎、顔伸びるっ
 「…でももし君が僕のことをからかったり、晶乃の心を弄ぶ為に晶乃に近づいたんだとしたら僕は許さない」
 刹那、瞳に熱雷が宿るとイザンは手を振り払った。
 「…そんなんじゃない!!」
 唇を強く、色が白くなるまで強く噛み締めるともう一度。
 「そんなんじゃ、ない」
 本心を言葉のオブラートに二重三重にくるんで見せづらくしてるのがイザンの常だ。しかしその顔には生の、矜持を傷つけられた故の怒り、のようなものが浮かんでいて。…十河が言っていたように晶乃に何か特別な魅力が備わっているのだとしたら、それはイザンのような少年の心も揺さぶるのだろうか。
 「…どうした、騒がしいが何があった?」
 扉が開くモーター音とその声が響いたのは同時だった。確認するまでもなかったがそちらに視線を向ければ早足に入ってきたのはエリオットで、随分と険しい顔をしていた。
 「なんでもないよエリオット。ちょっとイザンと話してた」
 イザンはふいと目を逸らせた。
 「どうだった?上の方に問い合わせてたって聞いたけど」
 これまた空いているデスクの椅子を引きエリオットは深々と腰かけた。膝の上で手を組み背もたれが大きく傾いでそのまま天井を仰ぐと軽く吐息が漏れる。そうしていると疲労によってかそれとも直接注ぐ白色灯によってか金髪が縁取る白皙の顔は更に色を失って見えた。
 「以前と同じだ。私が口を出す権限のことではないと跳ね返された」
 「…そうなんだ」
 「やっぱり詰んじゃった?これでまた箱実の黒歴史が1ページみたいな感じ?保安部はテンプレ通りの調査報告書作ってトライアルに関するイヅナ事件は形だけ一件落着ってオチで」
八つ当たりなのかイザンの言葉はかなりとげとげしい。
 …しばらく、重苦しい空気がフロアを満たした。
 大樹が地下で太く長く絡んだ根を持つように、青空の下で張った幹と茂る枝葉を持つように、箱実という企業は公明正大な部分と大きな声で語ることははばかられる部分を併せ持つ。世の中の組織と呼ばれるものの大半はそのように成り立つことは既に知っているしそのことで箱実に絶望するほど純真ではないけれど、それにしてもこの、胸の底がざらつくような後味の悪さは何ともし難い。
 それから更に鉛色の時間があって、沈黙を破ったのはエリオットだった。
 「そうではない」
 …思わずエリオットの顔を見る。彼は今、何を否定したのだろう。
 「エリオット…?」
 「…今まであまりに多くのトラブルが連続して起こったせいでそれら一つ一つについて深く検証する間もなかったがそのつけを精算する時が来たようだ」
 「ええ?」
 質問を拒絶するかのようにエリオットは細身の眼鏡の奥の瞼を閉ざした。
 どういうこと?とイザンに目線を送れば、イザンは一切の表情を出さずエリオットを凝視している。
 「これまで十河が仕掛けてきたことの中で十河が箱実のシステムに通じていなければ実現不可能なものがいくつかあった筈だ。
 一つは、イヅナの情報を盗みそれを使って正剛くんに接触したこと。一つは、テクバレの通行ゲートの通行記録の改竄。そして一つは、地下通路の経路図を把握しての脱出。クラッキングは技術を持つ者なら可能だが地下通路についてはテクバレの建造物全体防衛上の必要から設計図のデータはオンラインには置かれていない。だから十河の脱出に関しては十河と箱実の上層部の取引を疑った」
 「…でも、その線は駄目だったから他を当ることにした?」
 「その通り。十河が箱実のシステムをクラッキングしたことが立証出来るならこれも立派な犯罪だ。保安部のメンツを潰されたままで大人しく黙っていられるものか」
そこで一旦言葉を切り、短く間を空けるとエリオットは続けた。
 「保安部では以前からイヅナの情報目当てでテクバレのLANにアクセスしてくるハッカー達のことは把握し監視していた。この手の不正アクセスは完全に防げるものではないから当たり障りのない情報はオープンにしておいて自由に触らせ、もし悪意を持った攻撃があれば徹底的に叩き潰す為だ。だが江夏透悟を騙る十河についてはいつどこから侵入してきたのか、そしてネット上で宗親くんの弟である正剛くんをどうやって見出したのか等はアクセスの痕跡も綺麗に消されてしまっていて不明な点が多過ぎた。
 正剛くんから提出を受けた携帯とパソコンを解析した結果、その者はハニーポットに置かれている情報ではなく総一郎達開発者クラスでないと閲覧不可だった本当の最重要級の情報を盗み出し、それを餌に使って正剛くんに接触していたことまではわかっていた。勿論そこまでの技術を持つ者だからそれ以降のことは容易に掴めなかったが…日本語では蛇の道は蛇と言うのだったな」
 「…ああ、そういえばエリオットって学生時代に国防省のホストコンピューターに」
思い出したことを言いかけるとエリオットは目を見開き、冷ややかに眼前の少年を見据えた。
 「…お前だな?イザン」
 ……………………………………………………………………………………イザン?
 …………………………………………イザンが?
 フロアの室温が一気に下がったような気がした。
 エリオットとイザンと、二人の間には肌を刺すような無音の、真空の空間があって、睨みあうわけでなくただただ互いに互いを見あったままで。
 「…ちょっと待ってよエリオット、それは確かなのかい?」
 人は意表を突かれた時は陳腐なことしか言えないものだというけれどまさしく。自分の中に蓄積されたイザンの記憶は「やっぱり」という言葉は導き出さない。
 しかし先に口を開いたのはエリオットではなくイザンだった。
 「…なんだ、上手くいったと思ったのに…ボクはどんなミスをやらかしたのさエリオット?」
 イザンはまるで悪びれず、テストの採点結果を尋ねるような軽い調子で言った。
 「直接関わったわけではないが私はテクバレのネットワーク構築の際に助言をしたことがある。その当時の人間でなければ知らないこともあるということだ」
 「…へえ?現役退いちゃって保安部なんかに来たんだしすっかり錆付いたかと思ってたらそうじゃなかったんだ?」
 イザンはデスクから勢いをつけて降りると自分の携帯を取り出し、キーを数回弄るとエリオットに放り投げた。それを横から覗けば、ディスプレイに表示されているのはお馴染み箱実の社章とそしてイザンの身分証明画面。…ただしその所属欄の部署は、保安部ではなく。
 「エリオットも総一郎も聞いたことはあるだろ?箱実の上層部直属の最適化機関って。ボクの正式な所属は保安部じゃなくてそっち。面倒だからぶっちゃけると十河に寝返ったフリして十河恒人の使いっ走りになって一緒に正剛をそそのかしたのも上に言われて十河が上手いこと逃げられるように手配したのもボクだ。…ちなみに江夏透悟って十河恒人のアナグラムだったんだけどこれはわかんなかった?」
 最適化機関。その名だけは。ただ「こういうものであるらしい」という話だけで社内でその実態や構成員を知る人間に出会ったことはなかった。末端の研究員には関係もないかと普段は意識の端にも上らないものだったのに、それが急に具体的な形を取って-ほんの十代の少年の姿で-現れたようだった。
 まさかという感情が理解を拒んでいるのか、頭の芯が痺れるような心地がする。けれどそれとは正反対にイザンの言葉の一つ一つの意味を冷静に考えている部分もあって。
 「…それって…イザン、君は上層部に命令されて十河にスパイ活動をしてて…その一環で十河に便宜を図ってたってことになるのかな」
 「何故そんなことを!?」
 エリオットが声を荒げると、心底可笑しくてたまらない、とでもいうようにイザンは笑った。
 「…何故?何故って、あなたが言うのエル?これはボクの『仕事』なんだよ。ボクが汚いことしなきゃなんないのも、あなたが日本で銃の引鉄を引くのも、総一郎がイヅナやイルカみたいなのを造ったのも仕事。それ以外何かある?」
 イザンは踵を返すと扉に向かった。
 「…待て、どこへ行く?」
 「逃げたりなんかしないよ。それよりボク一人押さえるのに一体何人連れてきたの?さっきから突入したくてうずうずしてるみたいだから早く行った方がいいんじゃない?」
 「…」
 舌打ちするとエリオットはイザンの背中を追う。扉が開くとずっと待ち構えていたらしい保安部員達がイザンを囲みエリオットがそれを先導するのが見えて、スローモーションのように思える動きで扉は閉まった。
 …あっという間に静かになってしまったフロアで、もう一度携帯を開けてみる。メールの最新、イザンが自分を起こす寸前と思しき時刻の着信はエリオットからのものだった。

 件名:イザンは耳がいい
 本文:そちらへ向かう。イザンを足止めしておいてくれ総一郎。

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