your heart my heart・その1

 兄の淹れた熱々のココアを顔をしかめながらも急いで飲み干して律儀にカップを洗い、シンクに置いて去っていった男の子から連絡があったのはそれからちょっとしてだった。
 彼と約束はしたけどその伝えられる内容は100%彼の判断次第だったから勿論その連絡が津川を去る電車の中から発信される可能性もあったので、携帯が鳴って発信者が彼だと表示された時は心臓が凍る気がした。
 どうやら寮の彼の部屋かららしい、もう消灯してるからうるさくできないしまた後で、と短く。
 その言葉で緊張は嘘のように去ってゆき、携帯が切れた後も少し呆然として掌の中の小さな傷だらけの機械を見つめていた。
 我に返ると早速飛び込んだのは兄の部屋だ。
 兄は彼を見送った後はまた論文の為の下調べがあるとかで部屋に下がっていて、でも中に入った時は熱心にキーを叩いているのでも研究者が主な利用者らしい英語の学術ネットのページを見ているのでもなくぼんやりしている風だったから少しいいかなと椅子にかけている兄の横に座ったのだった。

 …そうか、こっちに残ると…何とか上手く立ち回ったんだ、イザンは
 何のこと?
 不祥事を起こした社員を起こした時点での所属にそのまま止め置くってことは普通はやらないことだから。クビにしないなら地方も全然違う支社とかに異動させて数年大人しくしてなさいっていうのが大概の会社の慣習
 不祥事ってでもイザンくんは箱実で命令された仕事をしてたんでしょ?
 イザンにさせてたのも随分なことだから箱実としてもその辺をつつかれると痛いだろうね。だからイザンは自分はこうしたいって希望を出せるしそれが通るんだと思うよ…個人的にはそこまでの強い希望があるのが驚きだけど
 ?
 僕が言うことでもないだろうし。と、話は変わるけど
 え?
 晶乃はイザンのことが好き?
 え、いきなり何言うのお兄ちゃん
 ああいいんだよ確認しただけ。晶乃とイザンはこれからおつきあいが続くだろうから僕からやっちゃいけないことを言っておこうか
 大事なことならお願い
 保安部の仕事は結構特殊だからそのことで傷つかない為の予備知識だよ。イヅナの件はもうほぼほぼ晶乃は知っていることだけど本来は僕と宗親くんと高柳くんと…つまり限られた箱実の社員の人しか知らないし知っちゃいけない筈の話だった。直接関わる人の命が多いという点で保安部員は秘密の範囲が僕たちの仕事よりはるかに広くて深いんだ。だから軽々しく話せないことなんて沢山ある。それはイザンとイヅナの事件の関係のことでも同じ様だろうね。晶乃はそういうことでイザンを責めたり嫌ったりしないであげて
 確かにイヅナのことはたまたまだったんだろうけど、イザンくんのお仕事の関係で私が知りたくなることってあるのかなあ?
 まあ可能性は少ないけど色々先取りし過ぎて心配してしまうのも研究者の悪い癖だから。イザンは口が堅いから優秀だし長い間箱実と十河の間を渡り歩くなんてことができてたんだ。でも人の心はそう強くはないから近しい人に懇願されたりして道を踏み外す人もイザンみたいな仕事をしている人には珍しくない。イザンは折角こちらに戻ることにしたんだから今度は箱実の仕事だけに専念できて、つまづいたりしないようにね
 …わかった。教えてくれてありがとう
 うん、…………
 …すごいあくび。今日はもう寝たほうがいいんじゃない?
 お互いにね。最近夜随分遅かったでしょ
 …うん…

 兄と話したことは自分に刺さったほんの小さな棘だった。
 勿論イザンが津川に戻り、学園に戻ると決めたのはとても嬉しくて、それにその晩はびっくりして、泣いて、二人で泣いてと気持ちの振れが忙しく全部が済んだ後では昂って眠りが浅かった。そんな中寝返りを打ち、薄目を開けて部屋の中を見渡して意識が水面の上に浮かんでくる度感じるほんのわずか、ちくんとした微細な痛み。
 それでも朝は来るもので学期末の消化試合といった様子の授業を受ける為に食事と身支度一通りを済ませてマンションを出ると、エントランス前の植え込みのところからひょっこり姿を現したのは脇に鞄を抱えた制服姿のイザンだ。
 「や」
 と、昨晩と同じく何週間かの空白も感じさせない調子でイザンは言った。
 「…イザンくん!今日から登校なの?」
 「進級したいなら残った授業位真面目に出ろってさ。歩きながら話そうか」
 そういえばこのマンションから箱実学園に通う学生は自分以外いないのだし通学路途中で誰かにかちあって彼との会話を聞かれる気遣いもないだろう。こちらの返事も待たずに踵を返す彼を追う。
 「お仕事も今日から?」
 「そっちは自宅謹慎処分って名目で休み。って言っても自宅はないから普通の学生っぽいことやってろって。ラボへの出入りも禁止されたわけじゃないし。復帰は四月一日付」
 「…そうなの」
 変わっちゃったな、と思う。
 自分は元々人と仲良くなったりするのは難しい方ではなくて、でも相手との距離と温度差が埋まるまでの時間というのはそれぞれだ。イザンの場合は学園で初めて会った頃から彼の持つ雰囲気が逆にこちらの心のロックを開け放しにしてしまうような感じだったけど、今は何となくわかる、彼の方が遠慮がちに一歩退いている。
 でも。
 「しっかし参ったよね謹慎分だけ今月の給料も減額。晶乃どこかいいバイト知らない?」
 「バイト…」
 イザンと肩を並べてこうやって言葉を交わすのが嬉しい。携帯越しじゃなくてイザンの顔を見ながら直接話せるってこと、それだけで嬉しい。…嬉しいけど昨日からの棘はどこかでちくっとする。
 そして自分にこんな棘が刺さるならイザンにはどれだけの棘が刺さっているのか、それでもイザンがボクは全然なんでもないよなんて平気な様子で振ってくるのはこんな話。
その大きさも痛みも「わかるような気がする」なんて軽々しくは言えないから自分だって平気な顔して答えるしかない。
 「えっと商店街のお店が改装中なんだけど今月下旬にオープン予定なんだって。バイト募集の張り紙出てたよ。高校生可って」
 「何の店?」
 「多分ベーカリーだったかな。あ、そういえば私もまだバイトってしたことないんだった。一緒に応募してみる?私イザンくんと働いてみたいな」
 イザンの表情が揺らぐーそうだ私はこの人のこんな顔も好き。明るく笑う表情も日の光が遮る時のような陰の刺した表情も時々こんな風に彼を包んでいる何かが剥れてその下に見える生の表情も。まるで知らない国の移る空を見てるみたい。
 「え?だってもう晶乃は受験生だろ?」
 「んー、春休みの間だけなら大丈夫だよ」
 だからイザンともう一度何かが始まるなら、イヅナのあの言葉をお守りにしてこんな一歩から。

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