雨の日

 「あ、北川だ」
 と、横のすぅ子が体育館に入ってきた二年生の集団の中の一人を指差したのは五限目と六限目の入れ替わり時だった。
 秋の好天を生かしたグランドでの体育が小雨で体育館に場所が移り、バレーボールで適当にお茶を濁して一時間を終えたのだけどまだ雨は続いているみたいで二年生らしいメンバーが続々と体育館に入ってくる。バレーに必要な諸々は片付けるようにとのことだったから二年生は別のことをするんだろう。クラスで女の子が少ないからってそういうところで優遇されることはなく、自分とすぅ子の担当はネットと支柱の撤収だ。
 「そういえば最近北川って休みが多いっぽいよね。健康そうな外見だけど実は体弱いんだって?」
 ネットを手際よくくるくるとまとめながらすぅ子が言う。『命に関わるほどのものじゃないけど持病があるので落ち着いて治療する為に転勤の多い親元を離れた』というのが今のところのイザンの学園内公式プロフィールだったりする。
 そして実際夏休みが終わって以来イザンの休みは多かった。週の初めか週の終わり、連休になるようなタイミングで。どうやら彼にしか頼めない仕事が増えてしまったらしいというのは正剛から聞いた話。
 「うん、そうみたい」
 そして自分も支柱のロックを外しながら答える。この程度の口裏を合わせるのは平気。それがイザンと自分と、あとは周りの色んな人たちの為なのはよくわかってるから。
 気の早い二年生はステージ下用具庫の中からバスケのボールを満載した篭を引っ張り出した。その中から思い思いにボールを取ると片付けの済んだコート側で遊び半分にドリブルやシュートを始めだす。邪魔にならないようにこっちも早く片付けないと。
 「北川って帰国子女だったっけ?病気のことはよくわかんないけど国を移って病院にかかるのって大変そう」
 「うん…」
 と、そういう体育館の端でのやりとりがもう片端のイザンの耳に届いた、というのでもないのだろうけど、不意にイザンの顔がこちらに向いた。にこっと笑い、手を振って口が動く。
 せんぱーい!
 その笑顔になんとなく動揺してしまって、一瞬か数瞬か手が止まった。
 「ちょっと晶乃、危ない!」
 「え?」
 気がついたら自分の真正面に倒れ掛かってくる支柱。
 ごん。
 …
 転入して以来お世話になったことがないからという極々個人的な理由で保健室の先生というのは暇な人なのかと思ってたらそういうものでもないらしい。自分の怪我をした状況を聞き取り二三の指示を出した後はまた元気な生徒が何かに激突したとか携帯に呼び出しがあったらしく出て行ってしまってそのままだ。全体的に白っぽい部屋の中ですることもなくぼんやりと窓の外のしとしとという雨音に耳を傾けていると、ドアが開く気配がして足音が近づきベッド脇のカーテンが開いた。
 「どう晶乃、生きてる?」
 六限目はまだ終わってない時刻なのに授業を抜けてきてくれたのか、カーテンの陰から顔を出したのはすぅ子だ。様子も見ないとだし少し休んでいきなさいって強引に寝かされちゃったけどもうそんなに痛くないし起き上がる。
 「あ、すぅ子ちゃん。うん何とかお陰さまで。でもちょっと背は縮んだかも」
 額に触れる。支柱が軽量タイプのものだったせいかあまり派手なこぶは作らずに済んだ。とはいえ人の頭に当たるには適当でない重さと長さのものだったから体育館はちょっとした騒ぎになっちゃったけど。
 すぅ子は笑うとベッドの上に鞄と制服が詰めてあったバッグを積んだ。
 「あはは、そんな冗談言う元気があるなら大丈夫。六限目は先生が休みで自習になったし退屈だからこっちに顔出したの。今日は晶乃はもう帰っていいって。自習分のプリントは鞄に突っ込んどいた」
 「ありがとう」
 「それとね」
 すぅ子はベッドに腰を下ろした。顎に指を当てて何かを思い出す風で。
 「北川が晶乃のこと凄く気にしてたよ。ボクと目が合ったと思ったらこんなことになったんだけど驚かせて悪いことしましたねって」
 覗くように、すぅ子の視線が自分の方へ移動する。
 「…ねえ、体育館で北川見るなりしおしおーってしてたしどうかした?」
 すぅ子は素行が心配な下級生を気にかけたりというところもあるけれど半面自分が介入しないと決めたことには突き放してドライだ。そういう人があえて立ち入ってくる時には変な迫力というか鋭さがあるというのは今この瞬間わかった。
 慌てて首を振る。
 「ないない何もないよ。ただ北川くんって自分のことあんまり言わないからすぅ子ちゃんと話してたら心配になっちゃって。多分北川くんもこっちに気を遣ってくれてるんだと思うけど」
 心配で不安。それは嘘じゃない。問題なのはその理由の方で。
 「そう?それなら北川の病気の話なんて出した私にも責任があるみたい。ごめんね」
 「ううん、確かに私もぼんやりしてたし。帰ってもいいなら支度するよ。保健の先生戻って来ないんだけどメモでも残しておいたらいいかな」
 「うんそのことなんだけどね、…そろそろか」
 すぅ子は壁の時計を見上げた。授業終了30分前だ。廊下を駆けてくるような軽い足音がして、勢いよくドアが開いた。その向こうに立っていたのは。
 「どうもです!無事早退したので参上しましたー!」
 既にちゃっかりジャージから制服へ着替え済みのイザンだった。どういうわけか鞄まで持参してる。ベッドの方にやって来るとすぅ子に向かって会釈した。
 「約束通り来ましたよ、小曽根崎先輩」
 「待ちかねたわよ北川。私はクラスに戻らないといけないから晶乃のことお願い。この人最近ぼーっとしてるから帰り道迷子にならないように気をつけて」
 「もちろん、仰せのままに」
 「え、すぅ子ちゃん?」
 自分をスルーして交わされる会話に戸惑い、すぅ子の顔を見ると彼女は笑った。
 「偶然ね、本当に偶然なんだけど今日は北川通院するから早退の予定だったんだって。時間に余裕はあるから晶乃を送って行ってくれるって。ありがたい言葉だし甘えておいたらいいじゃない?それじゃ私は戻るね」
 これ以上は関与しませんからねって、さらりと、そっけない感じですぅ子は出て行ってしまった。
 「送っていくから」
 すぅ子の気配が消えるのを計っていたのか、ちょっと間を置いてイザンは言った。
 「でもイザンくん、わざわざ早退してまでそんな」
 自分のぼんやりを彼にフォローしてもらうのは悪いような気がする。それに。
 「遠慮してるの?大丈夫だよそこらはちゃんと計算してあるから。もし出席日数足らなくてもテストとレポートで補填しますって裏約束もあるしボクが驚かせたのは悪かったしね。平凡な受験生が頭打つのなんて一大事でしょ。数式の一つや二つ吹っ飛んだかもしれない」
 イザンの手が軽く額に触れた。言葉はからかうようだけど気にしてくれてるのはわかる。
 「…うん、でも、一人で帰れるよ私。今日は雨も降ってるし送って貰わなくても大丈夫だから、ありがとう」
 途端にイザンは断られるとは思ってなかった、とでも言うような憮然とした表情になった。
 「ボクの送迎じゃ不満?」
 「そうじゃなくて」
 ただちょっと外で一人になりたいだけ。
 「…いいけどね、じゃあ総一郎に連絡するなりして晶乃だけで帰らないようにしてよ。終業までラボで待ってたっていいんだから」
 そして、イザンも保健室を出てゆく。
 彼は早退したと言ってたけど自分が断ってしまったから、どこでどうやって時間を潰してるんだろうということに思い至ったのはノートの切れ端をメモ代わりに置いて保健室のドアを閉めた後だった。

 携帯を開くと、彼からのメールが短く。
 ちゃんと家に着いた?怪我した時位総一郎の世話なんてさぼっていいんだからねお大事に
 額を押さえると件の場所は少しだけ痛む。だから今日位それにかこつけて家に帰るなり何もしない覚悟で寝てしまっても良かった。兄はそういうことを非難する人ではないし自分がが手を貸さなくとも一晩位は過ごせる生活能力はある。なのに普段と同じように夕飯と共に帰宅した兄を出迎えていつもの時間にはいつもと同じように参考書とノートが机の上に。
 先取りの勉強を進めていたこともあり参考書の開く場所は三年生が始まってから時間の経過と共にどんどん本の後になって、もう開き癖のついてないページの方が少ない。
あとどの位の時間が残ってるのかな、と考えて小さく首を振る―いけない。関係のない何かと何かを強引にこじつけちゃってる。こんなことして延々同じところをさ迷ってるなら本人に聞いてしまった方がすっきりする。
 …だって結局「わからない」ってことがわかっただけだったんだから。
 春先にイザンを出迎えて、それまで自分はずっと彼の人となりには触れてきたけどその仕事には無知だって身に染みたからそれとなく調べてはみた。とはいえ方法だって限られてるから本で、ネットで。文字の中から掘り起こした情報を何とか繋ぎ合わせると自分みたいな高校生が気安く語れることじゃないのが窺えた。ただそれらの中で触れられてるのはあくまで国家組織とか企業対企業の話で彼のような一企業の中の一組織のメンバーの詳細な話は出てこない。当然のことだけどそういう場所に所属してる人、組織の中で随分と複雑なトラブルもあった人はどんな扱いになるのかなんてことも。わからないことは一旦保留にしてしまって、そして彼はお客様よりは頻繁に家を訪れるようになり、後輩よりもずっと距離が近くなり、津川での毎日とそして何より自分の中で定位置を占めるようになった。強引に割り込まれたのでなく最初からそうあったように。
 そして携帯のディスプレイを見つめて。
 指は動かない。…本当に、自分は何を怖がってるんだろう。小さい頃からの色々で近しい人との関係が変わっていってしまうことには慣れてると思ってた。変わりそうな潮目の時に自分はどうしたらいいか考えて実行するのだって初めてじゃないのに。
 何かを。
 あの人はイザンのことを指して言ったんだ、一つの場所に長く居る人じゃないね、異邦人の顔だって。
 そうだ見ず知らずの人にいきなりそんなこと言われて、自分がこの半年彷徨ってるところをざくっと痛く指摘されたような気がして。そういうのって結構な図星を突いてることも多いから。
 待って誰が言ったのそんなこと。
 誰だっけ。
 …
 イザンと出かけるのもそう頻繁じゃないから案外彼とのやり取りはこまこましたところまで覚えてるしそれがかなり最近のことなのもわかるけど、この記憶はかなり変でまだらに曖昧だ。
 あの時はイザンと自分で夏休みに送りあったメールの答え合わせをしてて、結局イザンが自分に送ったメールの方が行方不明率が高いねって話になって、だからボクの負けだし仕方ないから奢るよって
 そうだあの人は笑ってた。目を細めて
 「…」
 こめかみの深い部分が痛んだような気がして手で押さえた。支柱をぶつけた所とは大分離れてるし痛みが別の場所に移るなんてありえない、大体こういうのは気分は上がらないし体もそれに引きずられてるっていうやつなので、返信はともあれ今日はこのまま沈んでしまおう。
 参考書を閉じてしまいぺたんとその上に伏せると、息の音は我ながらとても重苦しい。

 癪なことに、彼女は見知った誰にでもそんな調子だったけど出会い頭に
 「イザンくん」
 と、ふわりと笑いかけて貰うのが楽しみだった。
 晶乃は自宅から通学してる生徒だし何かの用事がなければ一日の内で学園での滞在時間は短い。学年も違うことだし遭遇率は高くなもののそれでも何かの折にふいと時間が空いていたらGPSに頼ったりせずこれまでの経験と勘を元に学園内を巡るのもちょっとしたゲームだった。彼女の側に無害な誰かが居るならわざわざ割り込んだりはしないけど互いに隣が空いてるなら先輩を無邪気に慕う後輩彼氏として振舞っても別に構わない。本当の彼氏らしく接触できるのは学園とは離れた場所でだけだったけど、それでも晶乃はそういう使い分けを嫌がる風もなかったから。
 そうやって登校時に玄関で、昼時に学食で、放課後に図書館で、あるいは極々稀にラボで向けられる笑顔が待ち遠しかったから―それについて考えると自分の中で何かが波立つけど他人には伺いようもないことだから無理に抑えようとも思わなかった―この分の悪いゲームは続いた。
けれどどういう拍子でかある日ゲームは流れが変わったのらしい。
 箱実のラボを訪れた部外者がまず通される待合スペースで面白くもない本が詰まった本棚の前に立つ彼女を見たのは終業間際の時間だった。
 「晶乃」
 声をかけ、肩を軽く叩く―振り返った彼女の顔色はあまり良くなくて。彼女の手の中で本が閉じた。
 「何だイザンくん!?びっくりした」
 「びっくりって、ボクはここの社員なんだから居て当然だろ。それより晶乃はこんなところでどうしたの?総一郎に用なら朝倉主任の妹ですって言えば中まで入れるのに」
 「ううん、そういうのじゃないから。最近お兄ちゃん帰るの遅かったんだけど今日は早く上がれそうだしたまには晩御飯どこかに食べに行こうって。ここで待ってればいいからって」
 確かに今週はそんな様子で、それでも妹はいつも通りの生活を守っていたのか少し疲れたように目を伏せる。日焼けた上製本の箔押しされたタイトルは「箱実製薬社史」。普通の本屋に置く本じゃなくて広報用に少数刷り社のこういう場所に置いたり関連会社に配ったりしたやつだ。
 「…そういうことならこれまでの家事労働を時給換算して総一郎の財布がぺらぺらになるまで脛齧ってやんなよ。で、何、殊勝にそんなもの読んで」
 晶乃は本をついと指で本棚に押し込んだ。
 「たまにはこういう馴染みのない本も目先が変わって面白いのかなって思って」
 「全然面白くなんてなかったでしょ?後ろ暗いところのある奴ほど上っ面とか建前だけ立派に取り繕おうとするんだから」
 そんなのに所属してる自分も同類だし詳しくは言わない。
 「そうかな」
 「そうだよ」
 そして案外早く総一郎はやって来て兄に皮肉七割本気三割の言葉をかけ二人を見送りはしたものの、晶乃の表情や、口調や、視線の動きに盤上の自分の駒の配置が有利にか不利にか傾いた瞬間を見たようなひっかかりを感じたのは確かだった。
 だから「ほんの少しだけ」注意して晶乃を観察することにして―自制心というのは病院のベッドで目が覚めたあの日以降、他人とそれ以上に自分を守る為に大事だと何度も教えられたものだから―どうやら不穏な何かが彼女の中で動いてるらしいのはわかった。けどもどかしいことにわかったからって以前と違いそれらは自分が積極的に干渉できないところにある。
 でも。
 「ごめんなさい私あんまりメールチェックできてなくて…えっと」
 晶乃は鞄を開けると中身をかき回した。ないないない、って感じで手が鞄の横のポケットを漁りファスナーを開け。
 嫌なことにわかる、わかってしまった、学園の玄関先で彼女の姿に声をかけてこちらを向いた瞬間表情には出さないけど晶乃は怯えたんだって。
 雨続きで湿気の高いまとわりつくような大気のせいか彼女が鞄の中身を探る時間はやけに長く感じられたけど、唐突に響き渡った予鈴の音がその煮詰まったような緊張を解いた。
 「ボクは今日はクラスの日番だからもう行くね。後で見ておいて、その気があるなら」
 言うと彼女に背中を向ける。
 「…それと多分携帯ってスカートのポケットの中じゃないの」
 「…え!?」
 …晶乃の声がこちらを追いかけてくる様子はなくて、そしてその日はメールの返事もないままで。ここまでになったらいくらなんでも思い過ごしとかそんなんじゃないのはわかる。
 でも。

 窓ガラスを叩く雨粒は大きくなるばかりでその勢いをどんどん増していた。
 朝方に少し覗いた晴れ間で長いこと居座り続けた秋雨前線はやっと重い腰を上げたのかと思ったらそれはとんでもない誤解で空模様は時間の経過と共に怪しくなり、授業途中に突然入った校内放送は学園の理事長の声で大雨洪水警報が発令されたと、そう告げた。滅多に思い出されることのない異常気象時の校則が適用されて授業は打ち切りになり、生徒たちは突然振って沸いた幸運にざわめきながら帰る最中だった。
 何が幸運かって学園の生徒の大半は寮生だから警報が出たところで場所を校舎から隣接する寮に移動するだけでこの雨の中を帰らないといけないのは通いでこの学園に来ている教師や僅かな自宅通学の人間だけだからだ。勿論宿題は出されたけれども平穏な学園生活の中のごくわずかなアクセントという奴で、面白がっているような雰囲気すらあった。
 寮に移る生徒のざわめきは雨音とは全然違った周波数で聞こえてくる。
 …宿題…多くて…先生は…から来てるのが大半だから…これから帰ると……ずるいよな…でも俺たちは……て…いいじゃん……
 目立たないように歩調を遅くして列の最後尾に移動すると渡り廊下の屋根の下から駆け出した。
 「先に帰る」
 「どうしたんだよ急に!?」
 けげんな顔をしながらも横に並んでいた正剛が声を上げたけどそれには構わず校門に向かう。
 不意に耳に飛び込んできたのは男子寮とは反対方向の寮に向かう女生徒の声だった。
 …朝倉さん……帰っちゃった……大丈夫…で待ってたらよかったのにね…
 でもわかったからって平気でいられるわけじゃないし自分はあの兄とは違う、もう少しましなことができる筈。
 …それにこれはもしかしたらどちらかが先に場を下りてて始まってなかったかもしれないゲームなんだから。

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