イザンと晶乃・捏造エンド編おまけ

人が皆宵っ張りなこの世の中でも、寮生活においては消灯時間が早く設定されている。たとえそこに住まうのが元気一杯の高校生であっても、だ。例外としてテスト期間中は消灯時間が幾分か遅くなってはいるけれどそれでも自宅通学の同年齢の人間と比べれば早い方だろう。
だからといってこの寮で勉強する充分な時間が取れないと消灯の早さを嘆く者もいない。消灯時間が早ければ授業時間終了後に先生に質問をして疑問点は早く解消すればいい話であり、放課後に図書室を使えばいい話であり、だらだらと無為に机にかじりつくより短時間で集中した効率の良い勉強をすればいい話であり、まあそんなところが頭のいい子供の集う学園らしいところでもある。
既に期末テストも終了してしまった寮は通常運転モードに復帰して、消灯時間も近くなると寮生達は歯ブラシをくわえてさまよっていたり、どうしても今日中に済まさないといけない用事があると友達の部屋を訪ねたり、何となくざわついた雰囲気であったけれどその空気は何者かの不意の登場によってどよめきに変わった。
そしてそのどよめきは自室を出ていた杉田正剛の耳にも届いたのだった。
そいつはあまり目立つ人間ではなかった。
アメリカからの帰国子女…というか親の仕事の異動にくっついてきたとかでまたすぐ転校しちゃうかももしれないんですけど、と、始業式でもない中途半端な時期にやってきて流暢な日本語で挨拶したそいつは純日本人的な顔立ちじゃないもののかといってなに系のハーフなんだと問われると困る風貌だったし、本人もその質問に対してはのらりくらりと交わしたし、またこの学園の人間は(特に寮生は)親との関係があんまり良くない人間もちらほらいるのでそういうことに立ち入らないスマートさが身についていたし、勉強でもスポーツでも、あるいは人当たりでも抜きん出たところがない代わりに平均点以下のところもないというある意味では面白みがない奴だった。
ただ変だったのはそいつがクラスでははみ出し気味の杉田正剛、学園では知らない人間のいない天才児の兄の杉田宗親の影になっちゃっておかわいそうと囁かれる正剛にやたらとちゃらちゃらと絡んでいったことだ。
それがアメリカンなフランクさというやつなのかあるいはただ単に腫れ物に触る怖さを知らない馬鹿なのか、とりあえず一回痛い目に遭えば目も覚めるだろうというのが周囲の評だった。
そしてそいつは二月も半ばになって急に姿を見せなくなった。短く素っ気無い先生の説明は色々憶測を呼びはしたが一応まだそいつの寮の部屋も手つかずで残されているらしいのが分かると憶測も段々と下火になっていった。根拠もない噂を散々立ててそいつが戻ってきたら気まずいじゃないか、と。そういうところは本当に頭のいい子供の集う学園らしいところだった。
だから、自室を出て別階の兄に借りた本を返しに行った帰りの正剛がそのどよめきを聞きつけて一体何よとその人垣の方に寄ってみれば、そこにあったのは退院できたのかよかったなとか、もう体は大丈夫なのかよとか、いつから学校に戻れるって?とか、温い目の言葉をかけられるそいつの姿だった。元々寮生は変な連帯感で繋がっている連中だから他の寮生の動向というのは気になるものらしく、普段からそいつと交流もなさげだった奴が人垣に混ざってるのはまあご愛嬌だったが。
「…あー!」
ぼたぼたと音を立てて返した本と入れ替わりで借りた本は床に落ちた。正剛がそいつをオーバーアクションで指さしたからだった。
人垣の中のそいつも振り返ると、ぱあっと表情が変わった。
「わー、正剛くん!」
人垣の構成員によけて貰うと正剛の前に立つ。
「イザン、」
正剛が口を開くとイザンはにこやかに答えた。
「すっごいお久しぶりですーボク退院できたんで部屋がどうなってるか気になってこっちに来てみたんですよー。正剛くんもちょっと雰囲気変わりましたー?あーほらほら言うじゃないですか男子三日会わざれば刮目して見よって。え、三日どころじゃない?そんなに経ちました?それじゃ積もり積もった話もあるし談話室行きましょうか談話室ー」
床に散った本を手早く拾い上げるとその口調よりかなり強引に、ぐいぐいと正剛の背中を押す。
「杉田ー、点呼近いんだし遅くなんないうちに戻れよー?」
階の真中の談話室に連れ立って向かう二人の背にかけられた言葉に、手をひらひら振って応えたのはイザンの方だった。

談話室は本来寮を訪ねてきた父兄などとの面会に使われるのだがそういった来訪もない平日は寮生に開放されて多勢でだべるのに使われているのが殆どだ。ただ消灯に本当に間近い時間ではほんのちょっと前まで誰かが居ただろう気配は感じられたがもう寮生の姿はない。
普段からの習慣で談話室の周囲に誰も居ないのを確認してからドアを閉めた。そして自分が手にしてる本-随分使い込まれた感じのする物理と数Ⅱの参考書だ-を押し付けるように正剛に渡す。
「ほら、いつまで人に持たせとくつもりだよ」
本を受け取った正剛の口がぱくぱくと動いた。
「入院」
「そんなの口実に決まってるだろ?査問会終わるまでずっと本社に軟禁状態だったんだって」
「江夏透悟って」
「エルと総一郎が説明した筈だよな?十河の話も含めて。ボクの口から言うことなんてこれ以上ないからな」
言いながら、何だかいやーな予感がする。先の晶乃の反応は正直、肩透かしを食らった感じだったけど正剛の単純なおつむからして今度こそ鉄拳の一発もすぐさま飛んでくるだろうという予想をしてたのだが今目の前に立ってる正剛は目がきらきらぴかぴか光って口は動いてるんだけど声が出てなくて、おそらく頭は猛回転してるんだけどそれに口が追いついてない。多分子犬の前におやつを持ってきて「おあずけ」をしたらこんなじゃないだろうか。
「俺さ、」
「だから、ボクはケジメつけに来たんだって」
正剛はとんでもない、とでもいうように小さく首を振ると、息を飲み込んだ。
「…俺、エリオットさんから誘われたんだ」
エリオット。正剛がどうして彼の名を出してくるのか、嫌な予感が核心に近づいたような気がする。
「ハァ?エルがお前に、何を誘ったって?」
「俺のしたことは勿論いけないことだけどこの年齢で箱実のLANにクラッキング仕掛けたりする技術を持ってるのはなかなか有望だからその才能を保安部で活かしてみないかって。荒事じゃなくて情報戦でも兄貴とか高柳のことを守ることはできるからってさ」
…嫌な予感、的中。
「…バカ、まさかそれ、受けたのかお前?」
正剛は頷いた。
「だって格好いいだろ?俺ずっと兄貴に勝てることなんかないって思ってたけど守るってのは守り手が守られる側より力があってこそじゃん、要は」
「…」
呆れて口がきけないというのは多分こういうことだが、正剛はこっちの様子なんかお構いなしで心底嬉しそうに笑った。そうするとあんなに反発してた兄の宗親にそっくりだ。
そして、有無を言わさず両手を掴んでくるとぶんぶんと振る。
「辞令が貰えるのは四月からだけど色々教えてくれよ、な、先輩」
「…先輩~?」
お前みたいなバカな後輩なんて願い下げだと毒づこうとしたその瞬間、腹に重く鈍い痛みを感じて思わずしゃがみ込んだ。
「っづー!」
我ながら情けない声が出る。予測されるある程度の衝撃には筋肉を調整して対処可能だがすっかり油断していた上いきなりだったので。そして何が起こったのかを察して正剛を見上げる。
正剛も義理堅く隣にしゃがむと、あっさりと言った。
「色々あったことはこれであいこな!」
「…は?」
「…それと、前にチャットで色々クサい話とかしたじゃん?あのこと誰にも言わないでくれよ恥ずいしさー」
…全く、どいつもこいつも。
腹立ち紛れに勢いをつけて立ち上がると談話室の外に出る。気の早い寮生は既に明かりを落としてしまっていて、ドアに嵌められたガラスの向こう側が暗い部屋もちらほらあった。
「どこ行くんだよ?」
「部屋!ボクの携帯充電切れだし充電器置きっぱなしになってるんだ。晶乃に連絡する約束だから」
「そうなんだ?急ぐんなら俺の携帯貸そうか?」
「いらないっ」
早足で階の端の自室に向かうと、正剛の声はそれ以上追いかけてはこなかった。

充電器は思った通り、コンセントの差込口がある机の隅でむっつりと沈黙していた。ただ他のわずかな私物や装備品はどうなのかざっと確認してみるとベッドのマットレスの下が隠し場所だった銃を納めたケースは当然ながら持ち去られていたが私服類は本社に移送されたとき持参した一部(津川に戻ってくる時に邪魔だったので駅のコインロッカーに突っ込んできた)を除いてはきれいにクロゼットに残っていた。予想通りに。
椅子を引いて腰かけ、本社で通信記録とデータの解析をする為に取り上げられて今日まで自分のところに戻ってこなかった携帯にプラグを差し込むと一瞬ディスプレイが明滅して充電中のアイコンと不在着信数の表示が出た。…晶乃のが何件か、それに番号を教えた覚えはなかったが(多分晶乃経由だろう)正剛のものもある。
…なんとはなしに、腹に手をやる。痛覚は遮断したからもう痛みはしないが瞬間の痛みは思い出せる。かなり響いてくるパンチではあった。
(なかなか有望だからその才能を保安部で活かしてみないかって)
そうじゃない。あの様子だと(100%が正剛の責任ではないことだし)直接提示はされてないだろうけど今回正剛が誘引した実験棟の事故の被害額だって相当な筈。それを帳消しにする代わりに箱実は正剛に首輪をつけて使い倒すつもりなんだ。才能はあってもバカだから今回みたいに他所に行かれて敵に回ったりすると面倒だから。それが箱実のやり方なのはずっと前から知ってる。自分の方が何倍も骨身に染みて詳しく。
(あのこと誰にも言わないでくれよ恥ずいしさー)
確かに、何日も正剛には付き合った。兄の存在がでか過ぎで、兄弟なんて独立した別個の人格なんだから開き直ればいいものを開き直りきれず、かといって無視もできずにとうとう兄の在学する学園まで追いかけてきてしまった正剛は随分鬱屈していてその辺からつけこみ易かったので。一通りを聞いて生半可な嘘や作り話じゃ正剛の気は引けないだろうと判断したのは十河だった。餌に自分の話を出そうと提案したのは強制されてのことではなかったが。病院で目が覚めた後に「自分の過去」として聞いた話だから何の感情も伴いはしないというのにそれを曲解して随分同情された。
(…会えてよかった)
別に、百の言葉で罵ってくれても引っ叩かれても全然構わなかったのに。それだけのことはした。総一郎の言葉を借りるなら心を弄んだ。なのに二人共、返ってきた言葉のあの甘さは何だろう。
(しあわせ に ふたり)
…いや、三人か。他人のことをどうこう言っておいて自分が消えてりゃ世話ないじゃないか。
「…っ」
胸に石が詰まったように重くなる。心拍の制御は完璧でも、それでも感じるこの重み。熱さ。機関員として働いているだけなら感じたことなんかなかったものなのにこの学園に来てから形を変えてはしつこく自分につきまとうもの。…何にせよ今日は頻繁すぎる。
拳を硬く握り締めると胸の真中にぐりぐりと押し付ける。そして、
「…バカばっかり」
口から出た呪詛の言葉はあまりにも頼りなく闇に紛れていった。
正剛も、晶乃も、そしてイヅナも。あいつらが何の警戒もなくあけっぴろげにこちらに示してくる善意とか、そういう類のものを好きなだけ喰い散らかして逃げることだって今ならできるけど、本当に驚いたことに自分はそんなこと望んじゃいない。
じゃあこれからどうする?
どうしたい?
…あんなお人よし達に、せめて自分は何ができる?
随分と、もつれた気持の突端を探して考えあぐねていたような気がしたが実はそれほど長い時間ではなかったのだろう、ふと確認すれば消灯時刻からわずかに経っていたのに過ぎなかった。

…携帯のキーを弄ってアドレス帳を呼び出す。幸い彼女の名前は先頭だ。

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