ヘルシングその2

※未完※

●緋の憂鬱●

 ドアが開く音に続いて靴音がしたので、私は慌てて目を開いた。
 …どの位の時間うとうとしてたんだろう、時計…は、この部屋の中にはなさそうだ。
 磨かれた床と、ぶ厚いオーク材か何かでしつらえられている机と調度、黒い革が張ってあるしっかりした椅子。そう、時計の針の音も聞こえないくらい静かだから思わず眠くなってしまったのだし。
 「待たせて申し訳ない」
 その人は言うと、机を挟んで私と会い向かいの椅子にかけた。
 先刻、名前だけは聞いた。インテグラル・ファルブルケ・ウィンゲーツ・ヘルシング。私よりちょっと年上のように見える、綺麗な人。
 クリップで纏められた紙の束をぽんと机の上に載せると、彼女は真っ直ぐに私を見据えた。なんとなく、居心地が悪くなる。
 私は今日一日走ったり転んだりで制服は泥だらけだったし、髪も多分くしゃくしゃになってるだろうし、何より制服の左胸にはでっかい穴が空いて血が滲んでいる。それを誤魔化すというわけじゃないけど毛布を肩からかけたままになってるので、どう考えても私はこの部屋には場違いだ。
 「失礼かとは思ったけれどあなたのことを一通り調べさせていただいた、ミズ・ヴィクトリア。警察やら何やらから資料を取り寄せていたので時間がかかったのだ」
 「はい」
 大きい椅子の中で、姿勢を正してみる。
 「セラス・ヴィクトリア。19歳。孤児院育ちで親類縁者はなし。警察に就職したのは1年前で、階級は巡査」
 「その通りです」
 断りのジェスチャーをすると、彼女は葉巻を取り出して火をつけた。独特の香りのする紫煙がゆっくり、広がってゆく。
 「…あなたの身柄は今日から、ヘルシング機関で保護される。もう警察や住んでいた部屋に戻ることは叶わない。そしてあなたにはここおいて二つ、選ぶ道がある。我々に飼われるか、それとも共に戦うか」
 「飼われる?」
 私自身、とんでもないことになってるのはよくわかるけど、あんまり穏やかな表現じゃない。
 「たっぷりの血液と住処を与えられて、飢えることも凍えることも絶対にないが何らかの監視がつく。…空腹や孤独からそこらの人間を襲ってグールだの吸血鬼だのをやたらに増やされても迷惑なのでな。そうでなければあなたの」
 手袋をはめた細い指が私の左胸を指さす。
 「胸に穴を開けて殺した男。アーカードという奴なんだが、あいつと同じように我々の国教と女王陛下の為に化物と戦う。こちらも勿論、住まう場所も食物も保証する。多くはないけれどこのヘルシング機関員として働くことに対して報酬も出る。選択肢は二つしかない、ミズ・ヴィクトリア」
 私はゆっくりと、首筋のちょうど頸動脈の辺りと、そして右胸に手をあてた。
 チェダーズ村でどうにもおかしな事件があったとかで緊急配備になったのは今日の…それとももう昨日になってるんだろうか、とにかく夕方。最低限の当直員を残して、非番や休暇中の課員も総動員して現場に向かって。新米だけれど同行した私の記憶はかなり、今でも混乱している。
 情けないことに私は、事件を引き起こしたチェダーズ村の牧師に捕まった。
 すると全身黒ずくめの男性が出てきて、私が処女かどうかを聞いて、手に提げた大きい銃で私を撃った。正確には私を羽交い締めにしていた牧師を撃った。
 とにかくその瞬間私は死にたくなかった。私が生きてきた19年は私以外の他人から見れば取るに足りないあんまり楽しそうじゃないものかもしれないけれど、それでも、絶対に悪いことばかりじゃなかったし、これで終わるのはあんまりだと、そう思えた。
 男性は私に質問した。私が答えると、少し笑って私のネクタイを外した。
 それまで気がつかなかったけれど、男性がかけていたサングラスの横から覗く瞳は赤かった。それに笑う口の端に見える犬歯はとても、長い。
 毛布にくるまれて運ばれる道すがら、男性は自分はアーカードという名前だと名乗り、人間ではなく吸血鬼で、私は処女の身で血を吸われたので彼の眷属になったのだと説明された。つまり人間である私は死んだのだと。
 それだけでも充分にショックだけど、私の存在が「人間」として終わり、「吸血鬼」として続くことにも不安があった。これから一体どうなるのか。
 男性は「そう恐れずとも悪いことにはならん」と言っていたけれど。
 でも。「飼われる」のも「共に戦う」のも。結局はケージの中に閉じこめられるか放し飼いにされるか、の違いしかないんじゃないだろうか。
 私はいつの間にか俯いていた。
 逃げることは多分できないだろう。逃げ続けることも、きっと。
 「…戦えるでしょうか、私が」
 「吸血鬼となったことであなたの身体能力は人間をはるかに凌駕するものとなっている。それに並の人間より基礎はできている筈だ」
 …
 顔を上げてみる。彼女の顔には何の表情も浮かんではいない、ただ私を見ているだけだけれど。
 「…それでは共に。共に戦わせて下さい、ヘルシング卿」
 「歓迎しよう、ミズ・ヴィクトリア」
 葉巻を揉み消して笑うと、彼女は私に手を差し出した。堅く張りつめていた雰囲気が緩む、とても素敵な微笑みだった。私も手を差し出す。
 「私のことはインテグラと。皆そう呼ぶ」
 「あの…私のこともセラスと呼んでください」
 一回、ぎゅうっと強く私の手を握ると、彼女は深く椅子に寄りかかってのびをした。軽い吐息が漏れる。
 「これで今日からあなたはヘルシング機関の一員だ、セラス。覚えることも沢山あるだろうがそれはまた追々。とりあえずは明日からだ。部屋はウォルターに用意させるから今日はゆっくり休むといい。疲れただろう、色々と」
 「あ、はい」
 インターホンを取ると、彼女は二言三言、何か指示を出した。
 切れると、ウォルターというのは執事の名前で、部屋を案内させるから判らないことは聞くようにと言った。そろそろ自分も休むことにするとも。
 私は慌てて立ち上がった。疲れてるのは私だけじゃないのだ。
 「ああそうだ、セラス」
 「はい?」
 ドアを開けようとすると、急に呼び止められた。
 「アーカード。私はあいつと10年のつきあいだが、私の知っているアーカードなら人質を犯人もろとも撃ち殺さなければいけないような局面だとしても人質の命に構ったりはしない」
 「…え」
 「つまりあなたに何か、あいつを執着させるものがあったということなんだろう」
 もう少し突っ込んで聞きたいと思ったけれど、丁度そこへウォルターさんが入ってきたので話は終わった。

 「それではおやすみなさいませ」
 ウォルターさんが優雅な一礼をして、ぱたりとドアを閉めてしまうと私は部屋の中に一人きりになった。
 地下階の部屋で、それまで人が寝起きしていたような気配は全然ないのに埃が積もっている様子もない。多分、定期的に人の手を入れてるのだろう。
 ウォルターさんはバスとかクロゼットとか、一通りのことを説明すると最後に私の着ている制服類は処分することになるから、と言った。それに私が今まで住んでいた部屋、そこに置いてある私物も全て処分するように手配するとも。
 何か特に手元に置いておきたいものがあるならこちらに移すようにするとは言われたけれど、寮の狭い部屋だったから調度類は少なかったし、自分の自由にできるお金というのは就職してから初めて手に入ったので服もそんなに数を持っていなかった。ただちょっと、人間の私を抹消する手続きが早く進むので取り残されたような感じがした。
 クロゼットを開けてみた。言われたとおり、可もなく不可もなく、という感じの普通の真新しい服が何着か入っている。その中から適当な一つを選ぶと私はやっと毛布を取って、泥だらけのスラックスに手をかけた。シャツのボタンも外して、今まで怖くて見られなかったところを見てみる。
 キャミソールには大きい穴が空いて、その周囲に乾いた血が奇妙な形の模様を作っていた。でも位置的に体に穴が空いてる筈のところには、つるんとした皮膚が傷一つなく違和感無く張っている。全部脱いで、背中側に手を伸ばしてみても同じ。押してみても痛みもない。
 『吸血鬼となったことであなたの身体能力は人間をはるかに凌駕するものとなっている』
 …これのことだろうか。…ううん、きっとこれだけじゃないんだろうけど。

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