蒼天の下、士魂号と幻獣は対峙していた。
『スキュラ1体、ゴルゴーン2体、ミノタウルス5体?ごつい敵ばっかりだな、今日は』
『怖じ気づいたか滝川』
『ふふふ、まさか、ね?私達に倒せない敵などありません』
『…来るよ!突っ込むから頼むね、舞』
3体の士魂号は、舞った。
10数秒のダッシュの後、3番機はゴルゴーンを射程に納めていた。
1番機は既に敵陣の真中に突っ込んで、キックを放っている。
92mmライフルの薬莢を景気良く飛ばす2番機。
遅れじと、3番機もアサルトを構えて撃つ。被弾しながらもなおも歩みを止めないゴルゴーン。その背中から、沸き上がるものがあった。生体ロケットポッド。
大太刀を引き抜くと、3番機はジャンプした。大きく頭を振りかぶるゴルゴーンの首筋を正確に捉えて刃を突き立て、捻る。ゴルゴーンはぐしゃりと倒れ伏す。
『…悪い、壬生屋を助けに行ってやってくれ』
オペレーターから通信が入る。
1番機は幻獣に取り囲まれる中なおも重い蹴りを放ち続けていた。
弾倉を交換すると、3番機は1番機の背後に迫るミノタウルスに全弾放つ。その体が砕け散るのと、1番機が2体目のミノタウルスを蹴り倒したのは同時だった。
浮遊するスキュラめがけて2番機のバズーカが炸裂した。
しかし白煙が晴れた後もスキュラの目は赤く光り続けていた。
レーザーが一閃する。その光は、次の敵を屠りに姿勢を立て直さんとしていた3番機を直撃した。
速水厚志は気絶する瞬間、舞の悲鳴を聞いた。
肩の痛みに速水は目を見開いた。
鼻腔に流れ込んでくる消毒薬の匂いに白い壁、白い天井。身じろぎして、自分の左肩に包帯がきつく巻かれているのを見る。
(病院?ってことはとうとうやっちゃったか…)
こんなところに居るということはつまりそういう事態になったということだろう。
「そうだ、舞!?」
速水は跳ね起きた。被弾した時、士魂号の電子装備が隔壁ごと自分に向かって崩れ落ちてきたときに聞こえた彼女の悲鳴が耳に張りついたままだ。
視線を移すと、自分が寝ているベッドの横にもう一つベッドが置いてあった。そこに横たわっているのは、舞。
速水はベッドから降りると、彼女の枕元に立った。
点滴の管も、手足を固定するギプスもない。ただ頭に包帯が巻かれていているだけだ。
(…よかった)
共に収容されているということは彼女も加療を必要としたのだろうが、あまり酷いものではなさそうだ。
「ごめんね」
小さく呟くと、速水は軽く舞の唇に自分の唇を重ねた。ややあって、舞の瞼がぴくりと動く。
舞は茶色く澄んだ瞳を速水に向けた。
「舞…よかった。傷は痛む?」
言いながら、速水はナースコールを押した。
舞は無邪気な童女のような笑みを浮かべた。
「父上、見舞いに来てくれたのですか?」
いくつかの会話を試みた後、速水はやってきた看護婦と善行にどうやらややこしい事態になったらしいことを告げた。
「収容時に頭を強打していた様子でしたのでCTスキャンと脳波測定を行いましたが、異常はありませんでした」
「全く…ですか」
「全くです。機能的に損なわれている部分はありません。頭部の打撲は時間が経ってから出血がある場合もありますので昨日と今日と続けてCTを撮りましたが、綺麗です」
そこで、何が起こっているのか納得のいかない様子の舞に、医師と善行と速水の視線が集中する。
「お名前は?」
「舞。芝村の舞」
「年はいくつかな?」
「八歳」
一体何度聞けば気が済むのかと通常モードの芝村なら爆発するところだろうが、目の前の彼女は大人しく答えた。小首を傾げる。
「父上、私はいつまで入院していたら良いのですか」
彼女が問いかけるのは、速水。
…つまりなんだか打ち所が悪くて、舞は八歳に退行しているらしい。しかも速水を父親だと思っている、らしい。
(どうしましょう、司令)
(芝村さんもあなたも怪我の程度は大したことはありませんから、ずっと入院というわけにもいかないでしょうね。意識が戻ったら退院しても構わないという話だったんですが)
(それじゃあ、舞は)
(おそらく一時的なものです。しばらく自宅で静養させて様子を見ましょう)
(面倒は誰が…)
(肩の傷を治しがてらあなたが見なさい速水君。ガンナー不在ではパイロットも休業せざるを得ません)
(え、あの…ののみあたりに)
(幸いどうやらあなたのことを父親だと勘違いしているようですし)
速水があまりのことに言葉を失っていると、急にドアの外が賑やかになった。
「ちわーす!速水と芝村、意識が戻ったって!?」
「お見舞いに来ました」
「あっちゃんもまいちゃんもだいじょうぶなのー?」
「心配したよバンビちゃん」
一組の面々、芝村の末姫が愉快な状態になっていることを知る。
結局。
善行に諭され、一組連中に冷やかされ、速水は舞を自分の部屋にお持ち帰りした。
記憶が失われているような場合には親しい者と接することがその回復の助けになるのだと、そして舞が小隊に来てから一番関わりが深いのは自分なのだと、医師と善行には言われた。何せ戦況が戦況であるし、彼女を実家に送り返すのは最終手段になると。
嫌だったわけではない。舞を部屋に招いたことはこんな事になる前に何度もある。
ただ、彼女ににどう接したらいいのかわからないというのが正直な気持ちだった。彼女の目に映っているのは速水厚志ではなくて彼女の父親だ。舞の口から、彼女の父はどんな人間だと聞いていただろうか。
彼女がぽつぽつ語る思い出話から察するに父と娘はほのぼのとした関係ではなかったようだけれども、ただ娘は娘なりに父親のことを慕っていたのだろう。でなければ恋人と父親を取り違えるなんて記憶の錯誤も起こらない筈だ。
速水はぼんやりと舞と交わした過去の会話を思い出しながら、食器を片づけていた。考え事をしてはいても手は動く。皿に茶碗に箸に湯飲みをすすいではざっと水気を切ってかごの中に重ねて。
「父上ー」
「はーい」
振り返った速水は、固まった。舞が立っている。それはいい。艶のある黒い髪をといて肩まで垂らしている。それは見慣れている。しかし見慣れないのは彼女の首から下だった。
「水温の調節がよくわかりません」
「…ああ、そう?お湯の温度は手前にレバーを倒すと上がって、逆だと下がるよ。それと温水と冷水のハンドルを一緒に捻っちゃうと水の方が多くなるから、冷水の方は締めておいて」
「わかりました」
「…それと、女の子なんだからタオルくらい巻こうね」
「はい」
ぺたぺたぺた、と足音を立てて舞はバスルームに戻っていった。
速水は思わず頭を抱えてしゃがみ込んだ。小さいけど胸の形は綺麗だし、ウエストも細いし、脚もなかなか…ということを知るのはもう少し楽しい状況の時の方が良かったなあとか考えながら。
そして、それから何日か。
速水は舞と一緒に寝起きした。朝は一緒に朝食を摂り、学校へ行く。授業を受けて(舞の退行程度からするとかなり難解な筈だがそれでも彼女は大人しく聞いている)、ハンガーを覗き(3番機の整備はパイロット二名に戦力外通知が出たので後回しにされている)、速水の部屋に帰って、夕飯を摂って、それから色々して就寝。その生活はまるで、
「新婚生活、楽しいか?」
「そんなのじゃないよ。なんだか僕、舞のお母さんになったような気がして」
であった。
舞には父と呼ばれるが、どうも彼女の世話を焼いていると父性というより母性が発動ぎみだった。というのも舞の行動と知識が八歳じみているからで、あれこれ気を配っているといつの間にかお母さんモードに突入しているのだ。
舞はかなりのことを忘れていた。髪のブロー(髪爆発)とか、ストッキングの効率良い履き方(こける)とか。それらについていちいち解説できちゃう自分を神に感謝の速水だった。
瀬戸口は腹を抱えている。どうやら声も出ないらしい。速水は溜息をつきつつサンドイッチにかじりついた。その先では、ののみと舞と壬生屋が楽しく弁当を囲んでいる。最初は記憶喪失の人間相手ということで奇妙な遠慮のあった彼女達も、舞は退行していようといまいと芝村であるという事実に慣れてしまった。何せ今の彼女に備わっているのは八歳としての自覚であっても、相変わらず他人のことは『そなた』と呼ぶし、尊大な態度はそのままだ。
善行はもう一度、彼女に士魂号ガンナーとしての教育を施せばそのまま戦場に出せるのではないかと冗談交じりに言っている。つまり。彼女がもしもこのままで、とりあえず困るのはただ一人という計算になる、かもしれない。
暗雲を背負う速水に、瀬戸口はやっと顔を引き締めた。口の端はまだ笑っている。
「まあこのままだとお前さんにとってはあんまり楽しくない状態だよな。それならここは一つ」
「一つ?」
「光源氏になりきったらどうだ?自分好みの女に育て上げるのも楽しいだろ」
そう言ってまた腹を抱える瀬戸口の足を、速水は思いっきり踏みつけた。
「僕は舞が舞だから好きなんだってば」
「それなら今の状態でも何も支障はないだろ?母親として娘を愛してやったらどうだいバンビちゃん。ラブの本質は根底では何も変わらんぜ、恋人同士だろうと肉親だろうと」
そんなこと言われても。
…奇妙な重み。まさか。
速水は目だけを動かした。案の定、舞の腕が自分の胸に乗っている。自分のベッドは舞に明け渡して己は床に転がる夜が続いているのだが、いつの間にか舞まで床に下りて横にぴったり寄り添っているというたまらない状況が頻発していた。
手を握っても顔を真っ赤にしていた彼女が何故にこうもくっつきたがりになったのかよくわからなかったが、喜んでもいられない。密着されると寝苦しいのだ。
(まったく、このお姫様ってば)
とりあえず速水は舞の腕をのけた。舞は可愛い寝息を立てたまま、目を覚ます様子もない。
速水は眠りに引き返すのを諦めて静かに体の向きを変えた。
舞の髪の毛を一房、指に取って弄ぶ。
彼女の父親は彼女と一緒に寝るくらいのことはしていたのだろうか。だとしたら嫉妬してもいいかもしれない。これから何年かかけて詰める予定だった彼女との距離を、父親だというだけで超越できるのはなんとも羨ましい…というか今現在は超越しちゃってるのだが、この機に乗じて今あれこれ悪さをするには気がとがめる。
舞が自分のことを愛してくれる気持ちとその表現は以前だって年齢にそぐわず幼かったから、のんびり育ててくれれば良かったし自分も待てると思っていた。けれど、
(…やっぱり違うよ恋人と肉親って)
ちょっと戸惑う。舞の髪に、閉じた瞼に、唇に、襟から覗く鎖骨に。
なおも髪を触っていると、不意に舞の唇が動いた。
「ちちうえ…」
当然と言えば当然だが、寝言ででも厚志とは呼んでくれない。溜息が出る。
「…またおでかけですか」
おでかけ。そういえば舞は言っていた。父はすぐ姿を消して、不意に戻っては、また姿を消す。そんな男だった…と。
言葉のパズルが組上がる。
もしも舞の父が彼女の言う通りの男だったとしたら、それほど親子の交流は濃くないだろう。そして、彼女の父が彼女と同じような性格だったら。芝村は日常生活を送るにはひどく不器用だというのは誰の言葉だったか。
親子揃って不器用だったら父の娘に対する愛も娘の父に対する思慕も、果たして充分に伝えあえただろうか。
速水は改めて、舞の寝顔をまじまじと見つめた。
速水は腕を高く差し上げると、指さした。
「あれがスピカで、あっちがアルクトゥス。それから…北斗七星ってどこかな」
舞は笑うと、速水の腕を持った。速水が指していたところよりちょっと場所を動かす。
「おおぐま座のしっぽはこっちです」
「あ、わかった」
「スピカとアルクトゥルス、おおぐま座のしっぽを繋いでできるのが春の大曲線、それから」
速水の腕をそのまま動かす。
「獅子座のデネボラ、これとスピカとアルクトゥルスを繋いでできるのが春の大三角」
「よく知ってるね」
「父上に教えていただきましたから」
何度かデートしたことがある博物館内のプラネタリウム。何せ平日の真昼間に星を見ようなんて酔狂な人間もいないから、貸し切り状態だ。プログラムは春の星座とやらだったけれど、普段それほど真剣に星を見たことがない速水にとってはごく親切なナレーションが流れても星を追えず、以前も舞に星座を一つ一つ教えてもらった覚えがある。
「そうか、覚えててくれて嬉しいな」
180度フルスクリーンの星空を見上げる。プラネタリウムでしか満天の星空を見たことのない最近の子供はかわいそうだなんて大人は言うけれど、それは勝手な感傷だろう。人工でだって、美しいものは充分美しい。例えそれが黒い月なんて物騒なものを抱えていたって。
「…父上?」
舞は速水の袖口をひっぱった。見ると彼女は眉を八の字に下げていた。
「うん?」
「…父上はまたお出かけになるのですか」
「しばらく出かける用事ってないと思うけど…どうして?」
「父上を見ていると時々思います。父上はまるで…」
「まるで?」
「てんじょうにあこがれる、だてん…」
「だ?」
眉根をぎゅっと寄せて、頭を押さえ込む。速水は慌てて舞の肩を掴んだ。
「どうしたの?」
「…堕天使のようだと」
堕天使。八歳の認識と語彙じゃない。暗い中、はっとして速水は舞の顔を見つめた。舞の顔の緊張が段々薄らいでゆく。
「…舞?」
舞はにっこり笑った。
「…なんでもありません父上。ちょっと頭が痛くなって。折角お仕事を休んで連れてきていただいたのにすいません」
ほんの、髪ひとすじしかない機会を不意にしたような感覚を速水は味わった。
「舞」
「はい」
「堕天使って?」
「え?」
きょとんとしている舞。速水は額を舞の額にぶつけた。そのままそっと抱きしめる。
「…父上?」
「大丈夫、お父さんは舞のことが大好きだから。舞の大好きもちゃんと伝わってるから。だから早いところ戻っておいで。…ちょっと寂しいからね、やっぱり」