草原に踞る人影。
それが誰なのか、たった一つ導き出された結論に背中を押されてリンクは走り出していた。
フィローネの泉で精霊に啓示を受けたあの日から、自分は勇者として生きることを定められた。
それを疎ましく思ったことは一度もない。自分に人とは違う力が宿っているのなら、それで自分を今まで愛おしみ育ててきてくれたこの世界とそこに住む人達を救うことができるのなら、その役目を負うのは(たとえ人に知られることはなくとも)誇らしいことだと思っていた。
ほんの少しだが自負もあった。
泉で攫われた時こそ不覚を取ったもののコリンはブルブリンの蹂躙から助け出せた。イリアは記憶を取り戻すことができた。
今まで何とか自分の大切な人達を助け守ってこられた、それならきっとミドナのことも。
けれどミドナは一人きりでガノンドロフに挑み-そして彼女の被っていた影の結晶石は平原に打ち砕かれ放り捨てれた。
ガノンドロフに最後の一撃を放ったその瞬間、マスターソードを振る腕を動かしていたのは勇者として正義を求める心だけではなく、彼女の決意を推し量れなかった自分の不甲斐なさに対する怒りでもあった。
けれど彼女はそこに居る。奇跡のように。
先程まで自分の心を厚く覆っていた絶望も何も全て放り出して、走る。
その足が止まると、踞っていた黒い姿はゆっくり立ち上がった。
「何だよ?…何とか言えよ。あんまり綺麗すぎて…言葉が出ないか?」
ミドナは肩をすくめて言った。
「体中がぎしぎし言ってる感じだ」
「大丈夫?」
窓框に腰掛けて城下町の明かりを見下ろしていたリンクが尋ねる。
ガノンドロフを打ち倒した後、ゼルダ姫は影の世界への帰還を急ぐミドナに、鏡の間まで自ら見送りたいと申し出た。それにはリンクも強く同意し、結局リンクもミドナもハイラル城に留まって出立を明日まで待つことになった。
わずかではあったけれどリンクとゼルダと、ミドナとゼルダと、それぞれ二人きりの時間が設けられた。
民に徒に不安を与えるわけにはいかず、今回の貴方の働きを公に讃えられないのを許して欲しいとゼルダは詫びた。麗しい姫君にそのようなことを何度もされるのも自分の身に余ることのような気がして、リンクは慌てて頭を下げかける彼女を止めた。讃えられたくて今まで剣を振ってきたわけではない。
そしてゼルダとミドナとは世界は違えど民を束ねる身として、そして心を共にした者として弾む話題でもあったのか。
それはリンクのあずかり知らぬことであったが、ともかくミドナは部屋に戻って来ると少々疲れた様子で吐息をついた。
「…長かったからな、あの姿でいたのも。まだ完全にこの体の勘が戻ってない」
ミドナをリンクは横目で見た。
正直、まだこの姿のミドナに慣れていなかった。
青みがかかった肌の色にハイラル人とは少々違う彫りの深い顔立ちと、黄昏色の長い髪と、そして影の世界のそこかしこでよく見かけた文様が織り込まれた服。
ゼルダ姫のような気高く清楚な女性とは違う。
かといってイリアのような気さくで元気な女の子とも違う。
でもその中身は間違いなく、ずっと一緒に旅してきたミドナで-彼女のことを知っているのに知らないという不思議な感覚に戸惑うばかりだったので。
そしてまた、彼女がやっと平和を取り戻した影の世界に戻れるというのにどこか悲しそうな顔ばかりしているのも気がかりなことだった。
リンクの視線に気がつくと、ミドナは笑ってみせた。
「何だよ?」
「ううん、何でもない」
「…変な奴だな。何が気に入らなくてそんなしょぼくれた顔してるんだ?」
それはミドナの方なんじゃ、と、言いかけるとミドナは卓の上の杯を取り上げた。
「ま、下々は今回のことなんて知らないし知る機会もこれからないんだろうけどさ、とりあえずめでたい席なんだから飲めば?」
言いながら杯をリンクに手渡そうとして、ミドナは卓の脚につまづいた。
「危ない!」
リンクは窓框から飛び降りると腕を差し伸べた。
杯がからからと音をたてて床に転がる。
危ういタイミングでミドナはリンクの腕の中に収まり、ふわりとなびいた黄昏色の髪がリンクの喉元をくすぐった。
「何だよ大声出して。心の臓が止まるかと思った」
リンクを見上げ、それでも以前と変わらない調子でミドナは皮肉った。
「そんな素足で転んだら痛いよ」
「子供じゃないんだから平気だ、転ぶ位。ちょっと前まで生きるか死ぬかの切った張ったをやってたってのにこんなことで大げさな」
笑って、立ち上がろうとして。
「そういえば」
「何?」
「お前ずっと私と目を合わそうとしなかったのにやっとまともにこっちを見たな」
これは魔物の姿の時と変わらない、赤い色の瞳がじっとリンクを見つめる。心を見透かされたようなばつの悪さに顔を背けようとしたが、それを細くたおやかな手が阻んだ。
「だってさ」
急に口の中がからからに乾いてしまったような気がして、リンクはやっとのことで言った。彼女の赤い瞳から逃れられない。
「だって?」
「調子が狂うよ、色々と…今までと違いすぎて」
「綺麗すぎる?」
「そうかも」
ミドナは軽く舌打ちした。
「馬鹿だなこういうときはそうだ、って言うんだよ」
「…ごめん」
そして、しばしの沈黙が何刻にも感じられた後。
リンクは自分の頬に当てられたミドナの手を取った。
ミドナは目を閉じた。
だから。
旅は終わるけれど別の新しいことが始まると信じていた。彼女が何を案じているのかはわからないけれどそれもきっと解決できることなのだと。
でも。
「所詮、光と影は交わっちゃいけないんだ」
ミドナ、
「ハイラルが皆、あんたみたいな人ならうまくやっていけるかもな」
何を言って、
「ま…またな」
何をするつもりで…!
ミドナの頬を伝う涙と粉々に砕け散る鏡。
驚いた顔のゼルダ姫。
自分が二度目の、取り返しのつかないしくじりを犯してしまったことを悟るのに時間は要らなかった。