所詮この世は男と女・3

 遠路はるばるやって来た後輩の意見を尊重しようと試しに
 「どこか、こういう処に行きたいとか何かを見たいとかはないのか」
 と尋ねると後輩は殊勝にも
 「先輩の帝都守護のサマナーとしての仕事を伺えるようなところがあれば」
 と答えました。
 なので。

 「…ここが」
 と、ライドウは川辺のよくわかんない鉄くずやら何やらが積み上がっただだっ広い空き地に立って言った。
 以前何度か尋ねた折には人影もあったが今やその者等はいずこへか居なくなり、何者かが運び出したのか山とあった珍妙な機械類も当時の半分程に減ってしまってはいるが。
 「私が超力超神に挑んだ折、衛星タイイツを破壊する為に多大な助力を頂いた九十九博士の研究所で」
 …果たして己の言葉が凪に通じているのかどうか不安になる。神は人間同士の言葉が通じないようにして引き裂いたというバベルの塔の話を思い出した。
 しかし凪は真剣な面持ちで頷いた。
 「その博士は今いらっしゃらないセオリーですか?」
 「独逸に招かれたと聞いたきりだ」

 「…ここに」
 と、ライドウは昼なお暗い霞の森の奥、紅玉と碧玉を抱いた二つの魚の像の前に立って言った。
 「晴海町の沖合にある地下造船所に連なる通路が隠されている」
 あれしてこれしてそうすると像の真中に位置する井戸の底にぽっかりと通路が口を開けた。
 潜ると、地下深い造船所はただそこに居るだけで気が滅入ってくるような黴臭い空気も薄暗さも当時のままだったが、この場所に召還されていたまつろわぬ神々が発する瘴気は嘘のように消えていた。
 「以前はここで鬼憑きの娘の血を借りて怪しからぬ陰謀を企てる輩が居た」
 説明して、女子を招く場所としては何だか色々なものが絶望的にダメダメ君な感じがした。大体こういう現実的なことでは鳴海に百日の長があるのだし聞いておくべきだったと思わずにはいられなかった。
 しかし凪は真剣な面持ちで頷いた。
 「それを先輩が阻止されたプロセスですか?」
 「苦労はしたが」

 茜射す人もまばらな電車の中、景色が東へ東へと流れてゆくのを珍しそうに眺める凪の横に腰を落ち着けるとライドウは言った。
 「あまり面白い案内ができなくて済まなかった。明日はもう少し気をつける」
 実際、どんなところ(女子と連れ立って赴くには不適だろうと思われる)に行こうと文句一つ言わず嫌な顔すらしないこの娘は少々鈍感というか豪胆なのかもしれなかった。
 向き直ると、凪はとんでもない、とでもいう風に首を振った。
 「いえ、以前師匠から先輩の活躍のことは聞いたことがあったプロセスなんです。今日直接先輩から説明して頂けて嬉しいセオリーでした」
 「ゲイリンから?」
 「帝都の不穏を年若いサマナーがたった一人で平らげたと…師匠が人の噂話をするのは珍しいセオリーでしたからよく覚えています」
 茜色に染まる凪の顔がどこか、寂しげな調子を帯びた。
 「今思うと師匠はあの頃から色々覚悟してらしたセオリーなのかもしれません」
 「…」
 何と返すこともできなかった。己の当時の行動が回りに回ってゲイリンのあの凄絶な最期を招くきっかけになったのだろうか。
 凪はしかし、無理矢理のように調子を変えて明るく言ってみせた。
 「…あの、自分は近々葛葉の里に行くプロセスなんです」
 「里に?」
 「はい、ゲイリンの名を継ぐに充分なクオリティがあるか時間をかけて審査されることになるかと思います。少し槻賀多を空けることになってしまいますが何としても叶える希望です」
 その表情は既に亡き師匠を慕う少女のものではなく、矜持と気概を備えたサマナーのものだった。
 強いな、と、内心感嘆して言葉に乗せる。
 「…凪ならきっと」
 「ありがとうございます」
 凪は微笑んだ。
 「…行く前に先輩とお話できて良かった」

 遠目に、明かりがともっていないのを見て嫌な気分はしていたのだがいざ扉を開け放つとその予感は現実となった。
 闇一色に染まった探偵社の内部には人の気配は皆無で、明かりを点ければ昼時一斉に人が出払ってから誰かが戻ってきたような様子もない。時計を見れば既に七時を回っている。
 「皆さんまだ帰られてないセオリーですね」
 …気まずく思っているのは己だけなのだろうか、事務所の中を見回すと凪はのんびりと言った。
 大体凪が来るようだと鳴海に伝えた時もいいよと任せなと宿の手配ならいくつか心当たりがあるからさと軽く請合ってくれたのに当人が戻ってこないのでは動きが取れないし一体今晩凪をどこにやるんだこれからいつ帰るのかわからない鳴海を待って二人きりなのかこのままだと事務所の続きの部屋に置いておくのか己と鳴海が使ってる狭くてむさ苦しい部屋だし煎餅布団だしそれはちょっと色々問題があるのかもないのかもというかこの状況がよくわかってないのか凪って。
 普段異界の者達と対峙する時より遥かに雑多で複雑な思考が頭の中をぐるぐると巡って、しかし結論はすぐに出た。
 「少し外に出てくる」
 町内に頼みごとをできそうな知人は何人かいるのだし当たれば凪を引き受けてくれる者も一人位はあるだろう、そう思って一旦脱いだマントを羽織り直し、待っているようにと伝えようとして言葉を失った。
 椅子にかける凪は目を閉じていた。
 「凪?」
 軽く頬を叩いてもその息は既に深い。
 そういえば駅に迎えに行きここに着いて休む間もなく町に出てしまったが、槻賀多から帝都までは何時間もかかる道程だ。見て回る間も休憩は入らずほぼ歩き通し、なのにこれまで疲れを見せる様子はなかったので気がつくこともなかったが。
 「…私が至らなかったな」
 椅子で寝せたままにするわけにもゆくまい、凪の体を抱え上げると事務所を横断して隣の部屋に行き、畳の上に下ろすと己のマントに何かが引っかかった。
 「…?」
 見れば凪の手がマントを掴んでいた。軽く引っ張っても手は離れないままだ。
 凪の唇が僅か、動いてくぐもった声が漏れた。
 「…先輩…」
 刹那、許されるのならあと少しだけ凪の無防備な寝顔を、柔らかな頬の線を、閉じる瞼を、長い睫を、通った鼻梁を、白い肌との対比で色鮮やかに映える唇を見ていたいという気分になった。そうだまだ鳴海が帰ってこないと決まったわけではないのだし。
 「ここにいる」
 呟くと、なるべく音を立てないように凪の横に腰を下ろした。

 眠りは、耳に馴染みのある探偵社の扉が開くばたんという音で破られた。
 「おーいごめんなライドウ、タヱちゃんと呑んでたら終電逃しちゃってタヱちゃんの家に寄せてもらったんだけど」
 これまたお馴染みの一人と一匹の声、足音にはっと気がつき、部屋の中もすっかり明るくなっているのに焦って立ち上がろうとして
 「悪かったなー?」
 ひょいと鳴海の顔が扉から覗いた。
 大変間の悪いことに凪の手はまだマントを掴んだまんまだった。
 鳴海が、己と、凪を交互に見つめた。
 …野暮は言いたくないけど何があった?
 所長こそ半日で随分血色が良くなりましたねズボンにプレスはかかってるし
 何があったんだ?
 黙秘します
 どうしても、か?
 どうしても、です
 サマナーと元軍属とどっちも眼光の鋭い者同士、視線と視線が痛い位に絡み合い、疲れちゃってどちらからとなく目を逸らすまでかなりの時間があった。
 面倒事に首突っ込みたくなかったのか遅れてゴウトが顔を出すと、言った
 (タヱの母親に馳走になった鮪の煮付は美味であったぞ?)
 事務所を満たす朝の光は刺すほどに明るく、白い。

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