おれぼく・その4

 イヅナが残した餞の言葉はシンプルで意味深だったけど、だからってそれだけで何もかもが上手くいったわけじゃなかった。
 目が覚めてからの訓練の賜物で自分の知っていること思っていることを素直にべらべら喋らないことと相手に触れてほしくないことがあったら別方向に誘導する会話術は身についたけれど、それは例えば気まずくなった相手との関係を修復するのにはとても向いていない技能だったから。…自分の知っていることを洗いざらいぶちまけて交換条件として最大限の譲歩を引き出すのは組織に所属する人間としては成功したけれど同じことをして晶乃に許しを請うわけにはいかない。守秘義務があるし晶乃みたいな一般人が知ったところで夜に眠れなくなる話ばかりだ。
 でも晶乃からはいつまで経ってもごめんなさいもさようならも言われず、勿論自分から強く希望できることじゃないけどこちらもそうしたくないしでなんとなく互いの距離は遠くならなくて、気詰まりだった会話にちょっとした冗談が混ざるようになって、手を繋ぐのに避けられるんじゃないかと躊躇することがなくなって、
 「…キスしてもいい?」
 と、あつかましくも聞けるようになって。
不意に消毒薬の匂いが鼻をかすめた。短くない時間こんな匂いの中で生活してたのにすっかり忘れていた匂いだった。
 壁や調度やが落ち着いた淡いクリーム色に統一された部屋の中でこれだけはよく取り替えるものですからと過剰に自己主張しているような真っ白なシーツ。その上に髪が乱れ流れていて、仰向けになっているのは晶乃だ。そしてその晶乃の両脇に軽く沈み込んでいるのは二本の腕。誰の?…誰のって。
 そうか夢。だって晶乃とこんな場所でこんなことになったことはないんだから。あの時晶乃は頷いてくれただけでこんな力業になんて持ち込んでない。夢ならもう少しムードとかに配慮して貰いたいものだけど自分の想像力のなさにも呆れる。
 晶乃のブラウスのボタンは上から下まで外れていてその隙間から胸の谷間と平らな腹とが覗いていた。薄くて柔らかな生地はうっすらと透けて胸の膨らみや肌の色がわかる。晶乃も顔を赤くしてただただこちらの直視を避けてたけれど思い切ったように大きな瞳がこちらを真っ直ぐ向くと唇がかすかに動いた。
 「…」
 …やっぱり夢とはいえこういうのは図々し過ぎるんじゃないかとほんのり感じるのは罪の意識。例え夢の中ででも晶乃を自分の好き勝手できるおもちゃみたいになんかしたくない。
晶乃の上から退こうとすると意外な位の力強さで晶乃の腕が自分の背に絡んだ。スチールのパイプで組まれたベッドが二人分の重みで耳障りな音を立てて軋み耳元を声がくすぐって。
 「…イザン」

 「…イザン、イザンってば!起きろって!」
 ばっとタオルケットが剥がれる感覚があって薄目を開けると、ベッドの足元の方で梯子に登って顔を覗かせているのは正剛だった。部屋の間取りは育ち盛りの高校生が二人揃って放り込まれることを計算しているゆとりを持たせた造りではあるけどロフトベッドの天井が近い独特の圧迫感はお目覚めの時間ですよと非情に告げている。
 夢。…勿論あんな展開はおかしいってわかってたんだけど。見る夢のコントロールまでは流石にできないし、というか寝てる間は意思の抑制が丸々外れてるせいで見る夢は人に言えないえげつない内容のことの方が多い。今みたいに。
 正剛はタオルケットをベッドの脇に放り投げた。ちょっと変な間があって、ほほほって口元に手を当てる。
 「何だよいい夢見てたんじゃん、きゃーイザンくんてばえっちー!」
 体を起こし何を指摘されたのかに気がついて、寝起きの全身に血が余すことなく巡り正剛に詰め寄るのに2秒もかからなかった。
 「…うるっさい!」
 パジャマ代わりの半袖Tシャツの襟元を掴まれた正剛の上半身がぐらりと仰け反った。手がロフトベッドの柵から梯子を求めて宙をさまよう。
 「…待った、悪かったって!ちょっとこの姿勢は不味いって!落ちるから!…と!」

 落ちた。

 「…はーいイザンさんしつもーん」
 「何」
 「イザンって自分の体のコントロールできるんだろ?どうして一緒に落ちんの」
 「ボクができるのはあくまでボクのことだけで重力を操れるわけじゃないからね。あの体勢で下手に回避しようとしてあれこれするより素直に落ちた方が危険は少ないし」
 「…あ、重力操るってなんか中ボスみたいなスキルで格好良くない?それと重い」
 「どくよ。頭は打ってないだろ」
 夢から一転で何が悲しくてごつごつで色気もない男の体を組み敷かないとなのかという八つ当たりをしてみたい気分だったけどしたらしたでその不条理の説明もしないとだろうしなので口には出さず正剛の上から退いて立ち上がった。
 「お?」
 起き上がった正剛は己の後頭部を確かめるように手を当ててさすった。その表情が気まずい感じになって腕を掴まれる。
 「ちょっとイザン」
 「何だよ続きなんてしてやんないよ。そんな趣味じゃないから」
 「じゃなくてさ、お前の腕俺が敷いちゃったんだろ?折れたりしてないのかよ」
 腕を慎重な手つきで右へ左へとひねった。
 「そんな鍛え方はしてないからお生憎様」
 部屋に差し込む光の加減からしてももう結構日は高いはず。今日から出掛ける用事があるのにとんだ目覚めだ。その手を軽く振り払ってバスルームへ足を向け
 「にしても珍しいじゃん?いつも早いのに」
 ようとしたけど取って返して正剛の頭を脇に抱え込んだ。
 「出かけようって前日にデータ吹っ飛ばしたの誰だっけ?」
 ヘッドロックされた正剛はほそぼそと答えた。
 「俺です」
 「復旧するのに俺の責任だから最後までやるからーって言ってたのに居眠りしてて結局人任せにして今日に持ち越す原因作ったの誰だっけ?」
 「それも俺です。…あの苦しいんだけど」
 「ふん」
 一回だけぐいと締め付けると正剛を解放した。
 「お前のミスなんだからお前から遅くなるって総一郎に連絡しとけよ。それとラボに行ったら速攻で片付けるからね」
 「へーい」
 ああ苦しかったというジェスチャーをして机の上の携帯を取り上げる正剛を見届けると今度こそバスルームのドアを開ける。
 洗面台の蛇口レバーをを上げるとふっと思い浮かんだのはもう切れ切れの記憶になっている先の夢だ。本当にあんな場所であんな匂いの中で生活してたなんてすっかり忘れてたのに。
 荒っぽく掬った水で顔を拭うとその水は奇妙に生ぬるい。

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