…一体、どこから始まったんだろう。
旅の最中は、うん、大事な…大事な仲間だと思ってたんだ。最初の頃は色々あったけどそれでも憎み切れなかったし元々僕はぎすぎすした人付き合いは苦手だ。事情がわかったら、そうだったのかって。今までああいう種類の人間とつきあいなんてなかったけど、わかったらそれまで色々悩むこともあったんだろうとか思ったし、多分そういうところがかわいいって言ってたら散々罵られただろうな。
ああでも女の子としてどうこうって言うんじゃなかったんだ。あんなにちっちゃかったし、小鬼の姿だし。
どこから始まったんだろう。
草原であの姿を見かけた時…かな。確かに綺麗だった。今も綺麗だけど。
それともハイラル城でもう変なことは考えないから影の世界に戻してくれないかって言われた時かな。悪戯はしませんって言わされた子供みたいだった。
それとも私が影の国を立派に復興してみせるって言った時かな。あんなに忙しそうにしてるのにあんな風に、割り切って、屈託なく笑ってるのは初めて見た。それまで見たのはなんとなく沈んだような影のある笑い方ばっかりだったから。
…私が元の姿に戻った途端に現金だなって言われそうだ。
…現金でもいいか。
僕はもっとミドナの笑う顔が見てみたい。
ゼルダ様がオカリナを吹いて、僕もミドナを止めて、光の世界と影の世界を結ぶ道は繋がりっぱなしになってしまったからもしかしたら余計な苦労が増えて笑うことも減ったのかもしれないけど…でも僕は鏡が壊れたままじゃなくて良かったと思ってる。
だからミドナの現状の責任はきっと半分位僕にある。
ミドナの戦う場所は政とかそういうところでになったから僕の剣はもう届かないけど、それでも何かの形でミドナに関われてほんの少しでも手助け出来て、それでもっとミドナが笑ってくれたら。
僕は大丈夫。
僕の為に怒ってくれるのは嬉しいけどそんな過激なことはしなくてもいい。相手は人だよ?ハイラルの野っ原に居る魔物とかじゃないんだから。
泣かないで。
丈夫が取り柄だって言っただろ?…またそんなので鏡を壊されちゃったら困るんだけどな…
しかし涙を拭おうとミドナの目元に差し伸ばした指先に濡れた感覚は伝わらなかった。
「…何だよ、目、覚ましてるのか?」
ミドナはそう言って伸ばした己の手を取ると、ひんやりとした両手で包み込んだ。彼女は随分と疲れてるように見え、その両の目は腫れぼったいようだ。
そうだいつの間に人に戻ってたんだろう。それに…そう、ミドナが大変なことになって僕が。
「ミドナ?」
起き上がろうとして、それはミドナに押し止められた。
「止めとけ。傷は塞いでもらったけど血が随分出てたんだ。ちょっとここでぐうたらして贅沢させて貰え」
そういえば寝かされているのは体が沈むような(多分羽根か何かが詰まってるんだろう)絹でしつらえられた布団、仰向けの目に見えるのはやけに豪華な装飾がされてる天井だし着せられてるのもかなりお上品な寝間着だ。ただしいつそんなものを着せられて寝かされたのかまるっきり記憶がない。
「…僕、寝てたの?」
「かなりな」
かなり。それが数刻なのかあるいはもっと長い時間なのかも判断がつきかねた。ただ玻璃が貼られた窓からは明るい日の光が差し込んでいて今が真昼だと辛うじて判る。ミドナと共に城に来た時空は何色だっただろう。
「…そうだ、ミドナは帰らなくてもいいの?」
影の世界を後にした時留守にするのが心配だとか帰ってきた後のことを考えるとげんなりするとか冗談交じりに彼女が言っていたのを思い出し、口にするとミドナはあからさまにむっとした顔をした。
「追い返す気か?リンクのことが心配でついててやったんじゃないか」
「でも忙しいって言ってたし」
「用事は済んだからって私のせいで余計な怪我した奴を放って帰れってのかよ!?」
語気の激しさに思わず身構えたがその途端ミドナの表情はくしゃっと崩れた。次いで目の端から涙の粒が二つ、三つと頬に伝ったので先程の制止も忘れて慌てて起き上がった。勝ち気で、愚痴が出ることはあってもからっとしていて、泣き顔なんて旅の最後の最後まで見せなかった彼女のまた再びの涙に胸を衝かれたので。
…本当に血が足りないらしくて立ちくらみのように目の前がうっすら暗くなりかけたが。
女の子の涙を止める気の利いた方法なんて覚えはなかったので果たしてこれでいいのかちょっと悩み、その背に軽く手を置く。
「…ごめんな……私のせいなんだ…」
「でも僕はゼルダ様に言われたんだよ?ミドナを護るようにって。結局こんなになって護るどころじゃなかったし僕は後で叱られるんじゃないのかな」
ミドナがとうとう、秘密裏にだが影の国の長として光の国を訪れ家臣達とも対面するとゼルダから告げられた時、きっぱりと簡潔に厳しく姫君から言い渡されたのはそのことのみだった。影の国には相応しい人間がいない、彼女を護れと。それを考えると部屋の豪勢さや何やは間違いではないかという気がして怖くなってくる。
ミドナ首を振った。
「そうじゃない」
「そうじゃないって、でも」
「…だから!」
ミドナは己の肩を痛い位の勢いで掴んできた。彼女の涙に濡れた顔が大きく迫って、そして。
例えば決して口に出せない、誰にも言えない種類のことだけれども夢の一つや二つは見たことがある。絶対己と未来が交わらないだろう相手と重ねる手や、唇や、もっと先の未知の領域のことだ。
けれどそれは今まで経験したことのないような柔らかさで、暖かく、湿っていて、本当に夢見たままいやそれ以上だったので。
「どうしてとか聞くなよ?」
ミドナの顔が数瞬をおいて離れると血が足りないせいかそれとも上せたせいか、ふらつき始めた頭を真っ直ぐに保とうと努力しながら尋ねた。
「…ねえ?」
「…何だよ」
「…夢だよね?」
「…随分図々しいんだな」
それでもまた近づいた唇はやや荒っぽかった。
「…これでいいだろ。私は帰る」
言い捨てるようにして、そっぽを向くようにしてミドナは側を離れてゆき、扉の向こうに姿を消した。少々顔が赤かったかもしれない。
ふわふわと力の抜けた体を再度布団に沈めると、間もなく闇が目の前を覆った。
そしてもう一度目を覚ました時には脇にはミドナは居らず、訪れてきたゼルダはミドナは早々影の世界に帰り己に短剣を投げつけた男の処分も決まったと、きっぱりと簡潔に言っただけだったので(不可解なことに己のしくじりを責める言葉は一切なく、体調が服するまで城で面倒を見ると言い渡された)、ぼんやりとだが確信した。
あれはやっぱり夢だ。