殆ど体を投げ出すような勢いでミドナの体は長椅子に沈んだ。
そのままの姿勢でずるずると体が真横に倒れると、溜息か吐息か判別つかないものがその口から漏れる。
長かったね
狼は長椅子のすぐ側に伏せると大きなあくびを一つした。
「全くだ。はいそうですかーで済む話じゃないとは思ったけどな」
実際それでは済まなかったのだった。
審議の場は騒然となった。
数月前から鏡の向こうの世界と連絡を取り合うに至り、今日は双方の合意を得て影の世界の姫君に足労頂いたのだとゼルダは説明した。
何の目的で、と、ある家臣は問うた。
当然のこと二つの世界の親交を求めてだ、と、ミドナは答えた。
しかし古に異世界に追いやられた魔術師とは神罰でかの世界に流されたのでは?
もう大層な時が流れました。影の世界の民人は充分な罰を受けたのです。鏡が発見されたことはその期が明けたことの証であると私は思っています。
しかしそのような身分の者が従者も連れずに?
ああ私の配下の者は光の世界の作法には慣れてないからな、無礼があるといけない。それにこの狼はそこらの半端な人間より強く賢くて頼りになる。
しかし…
たった今ここに現れた者が私の言うことを逐一信じろと言うのは無理な話だと承知している。しかしもし貴殿らが影の世界の存在を信じるつもりが端からないのなら揃って私の宮殿にご招待申し上げてもいい。
…
…
結局ミドナの言葉の真偽が問われ、城に保管されている古文書を持ち出す騒ぎになり、それらとミドナの諳んじる影の世界の歴史を照合してから家臣達はやっとのことで納得し、ハイラルから使節を派遣するのしないのという話に落ち着いてようやく解散になったのは更に数刻が過ぎてからだった。
疲れたことでもあろうし少し休んでゆくようにというゼルダの言葉にミドナは一も二もなく頷いた。ゼルダとほんの僅かな時間話して帰るような気楽なことでは今日は済まないだろうと、影の世界で最近登用した家臣達にも鏡の間を護る賢者達にも留守の間の守を重々言い含めて出てきたのだ。
「会議とか相談事とかが面倒なのはこっちもあっちも変わらないんだな。面倒で肩が凝る」
先程の狼のあくびにも負けず劣らずのあくびを一応は姫君らしく両手で隠すと、目一杯の伸びをする。
疲れたね
狼は長椅子に両前脚をかけて後脚で立ち上がり、ミドナの顔を覗き込んだ。その額にミドナは手を置いた。
「そうだな。リンクもその体で窮屈だろ?帰ったらすぐ戻すからもう少し我慢しといてくれよ」
リンクをこの場に随行させたのはゼルダの提案だった。作法云々以前にある程度の腕が立ち、影の世界の住民にとっては未知のものである光の世界の明るさや何やに怯んだりしないだろう従者がミドナの周囲には居なかった為だ。
僕は大丈夫だよ。それよりミドナは大丈夫?何だか声に元気がない
狼は心細そうに鼻を鳴らした。
「仕方ないだろ昨日は緊張してよく眠れなかったんだ」
ミドナでもそんなことあるんだ?
「何だよそれ」
横になったまま狼の額を拳で小突く真似をして、ミドナは軽く目を瞑った。
「…本当、こんなに何度もこの城に来ることになるなんて半年前は考えもつかなかったのにな。それも影の国の代表としてなんてさ。こういうのは元々私には向いてないんだ」
狼の耳に届いたその独白は自嘲の色彩を帯びているようだった。
…ねえミドナ?
「んー?」
ひょっとしてあの時鏡が壊れたままだったらなって思ってる?
「…」
あの時鏡が壊れたままで、影の世界と光の世界を行き来するようなことがなければもっと気が楽だったとか…そんな風に思ってたりする?
国の復興と光の世界との交流の模索とを平行させる結果ミドナが何を背負うことになったのか、二つの世界を往復する日々を送ってきた狼は門外漢ながらその重みをなんとなく察していた。それはややもすれば女一人には荷が勝ちすぎることのように時々は思われた。
「そりゃ、少しは」
ミドナの声が部屋の中に静かに響く。
「でも私はこうなることを選んじゃったんだし始まったことはもう止められないだろ。…姫さんも、リンクも私のことを助けてくれるんだしさ…だから私は最後までやるよ。変なこと言って済まない」
ミドナは勢いをつけ体を起こした。微笑むと狼に向き直り、その首に腕を回す。
「…リンクには凄く感謝してるんだ。色々ありがとうな」
…ミドナ…
それは一瞬で女性特有の柔らかな匂いはすぐさま狼の傍を離れてゆき、微笑みが消えるとミドナは表情を悟られるのを遮るかのように俯いた。
「…それで、リンク」
…何?
「…こんなこと言うのはわがままかもしれないけどさ」
…うん?
ミドナの次の言葉を待って狼は小首を傾げた。感情の抑えの効いた声で彼女が何を言おうとしているのかどうにも予想がつかない。
その沈黙ははるか遠くから聞こえてくるようなこつこつという音で破られた。束の間の困惑の後それが控えめに扉が叩かれる音であるのに気付き、ミドナは慌てて立ち上がった。
「何用か?」
扉の向こうに立っていたのは先程閣議の間にも居た家臣の一人、背の高く白髪の男だった。慇懃に礼をすると扉の外を指し示す。
「ゼルダ様がミドナ様と直々に話がしたいとのことでお呼びです。一緒に来て頂きたいのですが」
「承知した」
合図して狼を促しミドナは男の後に続いた。
ミドナの背中を追いながら狼は、先刻彼女が言い掛けたこと、その言葉の先に思いを巡らせた。
城内を方々探ったのは随分前になることだしその当時は邪なものに空間を歪められて到底まともな造りではなかった。ゼルダに召されて何度か登城した折りには案内されて決められた通路を行くのみでそのようなことで本来の城の間取りなど覚えようもない。
それら故。
ゼルダの処に行くには歩きすぎ、そしてゼルダにここでしばし休んでゆけとあてがわれた部屋から離れすぎたと思い至るのに少々遅くなった。
狼はふと歩みを止めた。空気の匂いを探ろうと鼻先を空にひくつかせる。
「…どうしたリンク?」
ミドナも立ち止まると狼の方を振り返った。
…変だミドナ。これは…
人と狼の身体の違いから、狼に変化することを余儀なくされた当時はあまりにも喧しく、また様々な匂いに満ち溢れた世界に翻弄されっぱなしだった。しかし次第に平常時はそれらの感覚をうっとおしくない程度に遮断し、必要な時のみ駆使することを覚えたのだが、その感覚が次第に蘇りつつあった。
漂う匂いは古い記憶を呼び覚ました。様々な人が行き交う城内の匂いに僅か混じるのは開け放たれた窓から流れ込んでくる新鮮な空気の匂いではなく饐え、黴っぽく、湿気っぽい匂い。
この匂いは、この匂いが漂ってくるのは…
狼は喉の奥から唸り声を上げた。
…ミドナ、そいつから離れて!
次の瞬間狼の視界にミドナを背後から何者かが羽交い締めにするのが移り、そして自らも後頭部に重く鈍い痛みを感じて、脚が崩れてゆくのとしばし戦った後狼はその場に倒れ伏した