your heart my heart・その5

 その日も、僕は昼食を食べる為にラボを出た。ラボには立派な食堂があって多国籍な社員が集っているから供される食事のバラエティも大したものだという評判だった。でも僕は入社してからこれまで一度も利用したことがない。というのもちょっと歩くといい感じの公園があって年の半分は僕は昼休みをそこで過ごしていたから。家から持参してきた昼食を済ますと休みの終わる目一杯まで本を読むなりぼんやりするなりあるいはノートパソコンを膝の上に広げるなりして外の空気を楽しむのが僕の習慣だった。
 その日は確かパソコンの方だったと思う。とにかく僕は自分の手先のものに熱心になっていて目の前に立った人間にあまり注意は払っていなかった。
 「お兄さん何してるの?」
 と、その人間は言った。
 「あっち行きな」
 僕はできるだけぶっきらぼうに答えた。まだ地域の学校は夏休みが終わっていなくて暇にしているそこら辺の子供に声をかけられることは何度かあった。
 「はーあ、久し振りなのに冷たいねお兄さんってば」
 「ん?」
 僕は慌てて顔を上げた。その皮肉っぽい口調は僕にはちょっと懐かしい感じだったから。
 「…イザン、イザンじゃないか!」
 彼は僕の記憶そのままの姿でそこに立っていた。彼は以前ここにいたことがあって、その頃新人だった僕は他の社員よりはまだ年齢が近いせいか彼と話す機会が多かった。ラボでは無難に過ごせるのだけが取り得の僕と違い彼はその実力が有名になるにつれ方々に呼ばれるようになりここを離れていったのだけど。
 彼はにっこり笑った。
 「鈍い!そんなんじゃ頭の上に雷落ちてきても気がつかないんじゃない?ところで隣空いてる?」
 「え、ああどうぞ」
 彼は僕の座っていたベンチの隣にぽんと腰掛けた。
 「懐かしいな本当に久し振り。どうしてこっちに?」
 「出張だよ、例の人がシェルターに出発するのをお見送りする簡単なお仕事。ついでにそれが気に食わない迷惑な人に警告」
 「…ああ」
 ラボに所属している研究者が論文を発表したのがきっかけで最近とある議員と繋がりが噂される過激派の思想団体に目をつけられているのはラボ内では知られた話だった。そういう事態になると出てくるのが保安部員で、彼はそうは見えないけどここに居た頃は影で保安部のジョーカーとも呼ばれていた。つまり彼が出てくれば大概の荒事はなんとかなると。
 「今回は相手も相当タチが悪いけどかわいそうにね、しばらくはこんな日光も拝めないよ。あの人も、あの人の家族も」
 「…」
 僕は思わず額に手をかざして公園を見渡す風の彼の横顔を見た。
 「そういえば君も日本で何かあったって聞いたけど?」
 「何だ知れてるの?面倒なことを一人に押しつけてたつけが来たってそれだけの話。いいよちょっとのんびりするから。したいこともあるし」
 「…ふーん」
 もう一回彼の顔を見た。
 「ところでまだ吸ってる?煙草」
 唐突にそんなことを言われて僕は必要もないのに慌てた。
 「かなり減らしたんだけどね。でも会社とか外で吸うのは止めたよ。色々とうるさいこと言われるから」
 「だろうね、前より臭いがしないもの。じゃあもうライターとか持ってない?」
 「えーと」
 僕は結構面倒臭がりだ。ジャケットもスラックスも仕事用に決めた何着かをずっと着まわしてる。脇に置いたジャケットの内ポケットを探るとライターが出てきた。
 「それ貸して」
 言われて、ライターを渡すと彼はその代わりに封筒を僕に差し出してきた。
 「何これ?」
 「エリオット・シーズニングからラブレター。今時アナログってどうかと思うけどこれが一番確実で安全だからって。とにかく読んでよ」
 彼の名前も会社組織の中では知れたものだった。隣の彼と同じように最初は稀有な臨床例として、その後は得難い人材として。彼も有能故に所属をあちこち変わる人だと覚えていた。僕も部署は違うけど彼の仕事のチームに関わったことがある。
 僕は封筒を開けた。便箋が一枚。
 …
 「読んだ?」
 「…読んだ」
 「返して」
 封筒と便箋を彼の手に戻すと、彼はライターでそれらに火をつけた。あっという間に灰になる。
 「ちょっと、イザン!?」
 「記憶力には支障なかったよね?いいお返事待ってますってさ。じゃあね」
 灰を払って立ち上がり、ライターを僕に投げ返すとイザンは手を振ってさっさと歩いていってしまった。
 …僕はしばらくぽかんとしていた。手紙の内容もとんでもなかったけど僕の知ってる彼はあんな風じゃなかったのだ。

 『では今回の作戦を確認する。お前の任務は襲撃者の確保。全員逃さず最低限の攻撃と反撃でこちらにご招待差し上げろ、議員との関係を吐かせる』
 「三人だったっけ」
 『五人に増えた。全員種別は不明だが銃を携行している』
 「非力な研究員を捕まえるのに随分大人数じゃない?そういうのいじめっ子みたいで嫌いなんだけど。最近ボクも調子悪いし一人位腕吹っ飛ばしちゃうかもしれないよ」
 『やめろ』
 「冗談だよ、できるからボクがここに居るんだから。で、あの人はシェルターにもう着いた?」
 『それは確認済みだ。彼らが襲うのは保安部員だ、お前は気にせず片付けろ』
 「ラジャー」
 監視役からリアルタイムでリンクして携帯に送られてくる画像は深夜のどこにでもある住宅街。幹線道路から乗り入れてくる車とその後から少し距離を置いて乗り入れてくる車。幹線道路で接触してこないのは時間帯に関わらず交通量がそれなりにあって人目につきやすいからだろうという想定と事前情報通り。それとは反対に住宅街の一帯はすっかり寝入っていて静かなものだけどそこここのブロックには保安部員が配置されていて収束に動くようになっている。
 車は住宅街のとある家の前で停まった。ガレージのシャッターを開く為に運転席の人間が降りてきて、そこへずっと後ろから着いてきていた車が衝突も構わない位の勢いで突っ込んできた。その車からばらばらと降りてきたのは五人。携えてるのも勿論花束なんかじゃない。
 件の研究員に変装した保安部員が取り囲まれたところで体のスイッチを切り替えると待機していた場所、ガレージの裏手から駆け出した。昇華状態では周りの景色は空も家屋も道路も街灯も街路樹も乱入者に動揺する人間の集団も水飴みたいに鈍重に粘っこく見える。
 銃以外に大した装備はないしこちらの襲撃も想定してなさそうだったということは基本的に素人集団だ。手刀を叩き込み足払いをかけて転ばせ引鉄を引こうとした奴は軽く撫でてあげればはいお終い。簡単だ。後は集ってきた部員が全部始末してくれる。次にこいつらが目が覚ますのは素敵な部屋の中って手配。
 …
 …
 …
 素人集団でもどうやらそのボスに対する忠誠心というのは強いようで機嫌よく口を開いてくれないとかいう話だったけど、ともかく自分が出張してきた目的の一つは果たしたので最初の経過報告を聞いた後はこのラボの保安部に任せて引っ込むことにした。
 自分にあてがわれている部屋は元々が長期滞在用の部屋でなく研究者の仮眠用だから最低限の設備しかない殺風景なもので、その上持参の荷物も殆ど広げていない。装備も全部返却して軽くなった体をただ大きいだけのベッドに投げ出すと狙ったようなタイミングでカーテンの隙間から 朝日が差し込んできた。眠る前の確認で手離さずにいた携帯を開く。
 自分がどこで何をしているのか明かさない程度のメールは何度か送っていた。どうもこちらの送ったことが伝わってないなという感じの返信でないメールが届いたけど国を隔ててしまっているから何か通信障害でも発生してるのかもしれない。それは帰ってからすり合わせないと。
 …実はそういうことができる帰国の日が楽しみで日付が変わる度にこっそりカウントダウンしていたりもする。声が直接聞きたいと思ったこともあったけどそれはあと一歩のところで踏み止まった。時差もあるし本人じゃなくてその兄に弱味を握られそうだから。
 「…」
 楽しみだなんて。日本に赴任した当初は授業も温い毎日に浸ってる同級生も退屈だったし天井が近くて狭い寮の部屋も好きにはなれなかったのに。でも帰ればそこに知った顔会いたい人間が居るってわかってるのは悪い気分じゃない。決して。
 メールは来てない。軽く目を閉じかけるとドアが乱暴にノックされた。
 「…イザン、もう寝たか?」
 こういうのはややこしいパターンだ。ほんの一瞬だけ居留守でも使おうかと考えたけどそれが無理な場所と状況なのはわかってる。わざと少し間を置いてからドアの向こうに返事した。
 「まだ起きてるよ、何?」
 「面倒なことになった。とにかく一回作戦室に顔を出せ」
 「…了解」
 この様子だと帰国の予定も延び延びになるのかもしれない。将来のことを考えるのは不得手だけど仕事上の予測はよく当たる。