両手を伸ばすと、右と左から晶乃の頬の真ん中辺りを軽く押さえる。
「だから、どうして晶乃ってキスしようって時に歯食いしばってんの?」
指の下で顎の骨にどうも異常な力が入ってる気配なのは触ってわかる。
「…もしかしてボクとするの嫌だった?」
だとしたら強引に求めるほど自分は恥知らずじゃないつもりだけど。
顎を押さえられて動きを止めた晶乃は赤くなってた顔を更に赤くした。首を物凄い勢いで振る。
「ううん、そういうんじゃなくてね、するぞーって思うと緊張するし…それに久しぶりだから、だから…嫌じゃないよ」
そうか文化の違いっての。軽くにでも日常的に他人の体には触れない慣わしだから人との接触に異常に緊張する土地だっけここは。そういうのもさっぱりしてて結構快適だったからすっかり忘れてた。
「するぞーって思うと緊張する?」
頬から手を離すと晶乃はちょっとほっとした様子で頷いた。じゃあ緊張しない方法を考えたらいい。
「なるほど」
一回。
「それなら」
二回。
「変にもったいつけなければいい?」
三回。
「いいいイザンくん?」
晶乃は唇を押さえて固まった。
「わかった、要はしようって思ってから間が開くのがよくないんでしょ?今の晶乃はおっかない顔してなかったしこれが正解?」
「あのそれはびっくりして」
「ほらそれになんだっけ、習うより慣れろ?見る前に跳べ?晶乃には言葉で教えたりするよりまず実践の方が向いてるってことで」
自分も実践重ねちゃったけどそれはそれでついで。
聞いたよ大学で情報工学専攻したいんだって?
「うん」
やっぱりイヅナのことが関係ある?
「あ、ばれちゃった?実はそうなの。ああいう勉強してたらいつかまたイヅナに会えるんじゃないかなーって。おかしい?」
おかしくなんかないけどさ、女ってロマンチストだよねー
「夢でもロマンでもいいの。それにそれだけじゃないから」
それだけじゃないって?
「…秘密」
と笑う晶乃は明るくてかわいらしい。その顔を見てるとイヅナは消えてしまってもちゃっかり晶乃の中に何か残していったんだなってわかる。今ここで晶乃の横に居るのは自分なのにそれでも胸の中では嫉妬が煮えてる。現実でなら銃弾一発で片がつくって思う位には。
「ああ今日は模試があったから疲れてるんだろうね。いいからそのままにしておいてあげて。今日は男だけで楽しく過ごそうか」
言うと、総一郎はエアコンの風を気にしたのか羽織っていたジャケットをソファで寝てしまっている晶乃の上にかけた。皺になるし疲れてたって制服のまま寝てるのはどうかと思う。
「ボクが部屋に連れてって着替えさせようか?」
「子供の前で何言ってるの。それに前にもこんなことあったけど動かすと結局起こしちゃうから」
総一郎の横で寝ている晶乃の顔を覗き込んでいた当の子供はこちらを不思議そうに見ると笑いかけてきた。
「…毎度毎度ながら総一郎はこういう時じゃないとボクを呼ばないよね。いい加減諦めればいいのに」
「君だってわかってて来たんでしょ。ただでさえ我が家は会社とプライベートがごちゃごちゃになってるんだからこの位で丁度いいんだよ。それよりお願いしていいかな」
「はいはい餌に釣られて来たボクが悪いってね。チビ、総一郎は今日も仕事があるんだってさ。何して遊びたい?」
引き受けはするもののするだけで一向に気が利かない総一郎の実態が知れたのか、スタッフが子供ならこういうので時間を潰せるんじゃないかなというものをいくつか用意してくれていた。ひらがな多め挿絵多めの本、アニメのソフト、遊ぶのに頭を使う系のおもちゃ。
イルカは服のポケットからマーカーを出すと手に提げていたスケッチブックに書き込んだ。
とらんぷ
「トランプ?また?いいけど。ってこの中にトランプ入ってるっけ」
持たされた諸々を突っ込んであるバッグの中を覗くとトランプは気配もない。
「この前君が来たときのは晶乃からの借り物だったから…部屋に置いてあるかな」
一旦落ち着けた腰を浮かすと総一郎は晶乃の部屋に向かった。
部屋の中三人きりになると何故かイルカが自分のシャツの端を引っぱった。晶乃を指差す。
「…お前が何考えてるかなんてわかんないけど子供がそういう気は遣わなくていいんだからね」
イルカはただ笑う。日焼けのせいなのか前より少し痩せて見える晶乃の息は目覚める様子もなく随分深いようだ。
日焼け。そういえばそうだった。
そういう場所だったから男の裸も女の裸も見慣れてた。患者が清拭されてる病室、引き取られるまで間がある死体が安置してある霊安室、膨大な画像付の症例集が紙でもデータでも、あとは…これは思い出したくないこと。
とにかくそんな感じの病んで傷ついてってのとは全然違う健やかな体。その体が性別が違うだけでどうしてって位柔らかくていい匂いがするのはもう知ってる。
鎖骨近辺から連なる曲線、それほど大きくない膨らみは呼吸の度にわずか上下していて日焼けしたら赤くなる色白の肌だからだろう先端の色は薄い。その邪魔な服を剥いでしまうのも押し倒すのも足を開かせるのもごくごく簡単、ほらこうすれば
「…っ!」
身の周りの何もかもを跳ね除けて飛び起きた。
全身に脂汗が滲んでいて胸郭の中で暴れているものが素でわかるほど鼓動は早い。思わず掌で額の汗を拭うと髪まで湿気ている。…Tシャツが肌にべったり張りつき、不快な気分になったところで枕元の携帯を開くとまだ真夜中。部屋の中は真っ暗で、共有のスペースを挟んで反対側のベッドの正剛の寝息が聞こえてきた。
体を起こすととんでもないところに蹴散らしていたタオルケットを引き寄せて壁にもたれかかった。呼吸と伯動を整える。自律神経の制御も睡眠時でなければ息をするのと同じようにできることだ。
できること、そうだと思ってた。
例え体格が同年代の人間の標準を外れていようとこの体は文字通り何にも替えられない体だ。体は意志の従属物で命令に忠実に従い自分に益と不益をもたらす。
けど、最近はバランスが乱れているというか意志が体にどんどん引きずられているような気がする。体は意志より欲に素直であんな夢を度々見せてはこんなことになる。面倒だしまた正剛の起きてくる時間でなくてよかった。
へー、何もなかったんだ?
とか正剛は言ったんだった。
監督者様方からせいぜいお行儀よくしときしなさいって言われてるしね
正剛は仕事の上じゃ総一郎と関わりはないからよく知らないんだろう。良くも悪くも、意識的にも無意識的にも妹のことでは異常に周到。でなければあのタイミングでエリオットが訪ねてくる筈ない。ああいう話を出されたのは計算外だったけど。
朝倉って案外お前のこと待ってたりしてたんじゃね?
ないよ。晶乃はダウンしてたんだから。引きこもりが祟って
そうなん?夜這っとけばよかったのに
お粗末な下半身とお粗末な脳が直結してるお前のお粗末な思考を行動基準にするな
そうそんなことしなくとも周囲の人間に知れない場所に晶乃を攫うのだって簡単だ。できないことじゃない。言わないだけ表に出さないだけで考えられる手なんていくらでもある。
…でも自分が本当にしたいこと欲しいものはそういうのじゃなくて。
汗と思考が次第に体を冷やすのと共に目も冴えてきた。軽く吐息をつくと壁に体を預けたままで目を閉じる。しばらくこんなことはなかったのにどうも長い夜になりそうだ。