日本人は仕方がないという言葉を軽々しく使いたがると赴任が決まった時に一通り目を通した日本語表現の本には記されていたけど、その表現は自分によく当てはまると思ったのは覚えている。
どこかの間抜けが飛び降り自殺し損ねて救急隊員が搬送先の病院を探したときたまたま高次医療を得意とする外資系の病院に空きがあったのも、間抜けが頭を強打したお陰でそれまでの記憶の代わりに普通の人間が持たない能力を手に入れたのも、間抜けの家族が間抜けが命を取り留めたのは喜んだけれど莫大な医療費にその喜びは吹き飛んでしまい間抜けの親権が売り渡されたのも、新しい親権者が善意の人間ではなく実利一徹の人間だったことも。
実利一徹とはいえ間抜けが実利の部分以外で雑な扱いを受けたかというとそんなことはなくて、その周囲には単に間抜けの病理的な部分を治療観察する者以外にも何人かは毛色の変わった人間が配置されていた。教師、心理士、(元家族の宗教に配慮して)牧師、その他。
立って歩けるようになってから周囲の物事にいまいち反応が薄い間抜けのことを心配したのは心理士で、間抜けを色々な場所に連れて行ってみませんかと提案したのは教師だ。まずは体に負担がかからない近場からとその外資の様々な関連施設に連れ歩かれて、たまたまどういう流れでか射撃訓練場に行ったのがまたそれ以降の話を面倒にする最大の原因になった。
それからはそんな仕方がないこと、の積み重ねだった。それらに対して恨んだり後悔したりもなかった。そういう感情は他に選択と検討ができる場合にだけ発生するものだろうし他に選べるものは何もなかったのだから。
が、偶然と必然と様々な要素が重なり合ってとうとうそんな状況に風穴が開き、組織に所属する人間として初めて選択肢が目の前にぶら下げられた。
成人する日までを猶予期間としてその日まで自分がどのように勤務したいか選べという一種の温情と恩着せ。ただしどこへ異動することになろうと成人までは組織が指定した人間が自分の監督者になると。大概の先進国には支社を置いているし抱えている人間も多い組織だから東の果ての国にしがみつかなくてもどこへでも行くことはできたしどんな仕事に移ることもできた。
苦労とかそういうのをあまり感じさせずに可愛くにこにこしてるから庇ってやろうって騎士気取りの人間が沸いて出て、それで何かと楽に過ごせる女なんだと思ってた。実際親の影はなくとも妹にべたべたに甘い、変人だけど組織随一の研究者の兄は度を越して、少しあやうい位にそういうタイプだった。ただその兄は状況のせいもあるけど前からの希望だったとかいう妹との同居を叶えた後が大雑把過ぎた。
結果、妹は泣いていた。兄とのそれまでの時間がもっと前の記憶に繋がったのらしく、でも見境を無くしてはいなくて泣きながらも自分のことも自分の周囲の状況もちゃんとわかってて、だからこそ兄を責める言葉も激しくて痛い、そんな泣き方だった。
それより前から妹とは単なる顔見知りより親しいという位に接近していた。正直本当の最初は仕方がないことの延長線、次はあの兄の妹はどんな奴なんだって興味、その後は自分でも呆れる程のお約束。女が菓子代わりに食べてる甘ったるいペーパーバッグのロマンスみたいな。でもそのお約束を本格的に後押しされたのは涙の裏側を聞いてからだ。幸せそうににこにこしてるだけじゃなく色々考えててそれなりに行動力も激しさもある…そんなところが好ましく思えて。
元々短期間の予定だった学生生活を自分は妹にとってただの気さくな後輩という立場で深入りせずに終わらせることだってできた。けど笑えることに登校する度妹を探している自分がいた。妹との生活を選んだのにそれをないがしろにする兄に腹を立てている自分がいた。今のは喋りすぎたと思える境界線のぎりぎりまで喋っている自分がいた。唇を近づけた時ひたすら拒否されないこと、自分の望んでいることを妹も同じように望んでいることを願っている自分がいた。妹の前で機械が残した言葉に涙を流した自分がいた。
そして津川に戻ることを選んだ自分がいた。保安部所属の要人周辺警護業務で構わない、学園には在籍して二重生活を送る。
本当にそれでいいのかという意思の確認があって組織からは正と副と一人づつ監督者が指定され、それで自分の身分に関しては処遇決定だった。
日が傾き始めたせいか津川の地形独特の風がゆるく巻き起こってはふわりふわりと晶乃の髪をなびかせる。
「…花を見る位であんな大騒ぎしてまともじゃないって」
そろそろ帰るからと言った彼女を送って行くと理由をつけてやっと抜け出し、校門を過ぎてまだ続いているらしい喧騒が遠くなった辺りで愚痴が漏れた。
始業式の今日はクラス分け発表とオリエンテーションだけ、つまり授業時間は半日きりで終わりの筈だったけどクラス分け発表の掲示板の前でいい具合に桜が満開だから花見をやろうと言い出した奴がいて、じゃあ昼食を学園の食堂じゃなくて外でシート敷いて食べようとかいうことになって、寮生は暇な奴らばっかりだから我も我もと参加人数が膨れ上がってどういうわけか新入生歓迎会も兼ねようぜってことになった。
二年に進級したとはいえまだ新参の自分は学内ヒエラルキーも下だしせいぜい適当に流して途中で抜けようと思ってたらついでにお前の快気祝いも兼ねようなとか言われて捕まって持たされた紙コップに散々ジュースを注がれてそれどころじゃなくなり、あっという間に午後も遅く。
晶乃の横顔が笑う。
「イザンくんから見たら変かもしれないけど桜って春先の一週間位しか咲かない特別な花だからお花見ってなるとなんとなく気分が盛り上がっちゃうの。皆悪気があるわけじゃないんだけど嫌な思いをしたんだったらごめんね」
「それは晶乃が謝ることじゃないしボクも案外面白かったからいいよ」
実際、自分は学生たちの中では目立たない人格で固定してた筈だった。そして特定の誰かと仲良くならない浅い関わりの代わりに憎まれもせず好かれもせず、後腐れのないそつない人付き合い。なのに津川に戻った夜がそうだったようになんでお前がって奴が生温い言葉をかけてきたりジュースを注いできたり。これが面白くなかったら何が面白いって言うんだか。
「そう?ならよかった」
ふと晶乃は足を止め何かを掌に受けるような仕草をした。見ればその上には桜の花びらが一枚。
「学園から飛ばされてきたのかな。こんなだと今週一杯で咲き終わりだね」
手を出して、と促されてその通りにすると花びらが晶乃の掌から自分の掌に。
これは桜にとっては毎年恒例の細胞の入れ替わり、晶乃にとってはただの戯れ。でも掌の上のちっぽけな淡い色の花弁が晶乃によってそうされたというだけで何だか得がたいこと、貴重なことに思えて。
ためらい、それでも自分の指は主人を裏切らず動いて、晶乃の掌を掴むと晶乃は驚いたような顔をした。…けれどそれも一瞬でまた微笑む。花の蕾が緩むように。
そうだこれは仕方がないことなんかじゃない。