海の中に立ってるみたいだな、と思う。
全長10メートル余収容してる海水は何万tだかの大水槽の外側を巡る通路の中。確か全国的にも有名な場所なので平日休日関係なく観光客が多いとか聞いてたけど何かのタイミングなのか前にも後ろにも人が立ってて先に行けと急かされるような密度ではなく、程良い感じであちらにこちらに人の姿が見える。
そんなだとこちらは種々の行き交う魚の姿の中では完全に招かれざるお客様だった。ちょっとお邪魔させてくださいねって異世界に申し訳なく立ち入るような心細さを感じるけど歩くと靴の下に感じるのは通路の床のしっかりした堅さ、自分は建物の中にいるんだよって感覚。
「晶乃、あれ」
水槽から注ぐ青い光の下イザンが何かを見つけたのらしく手招きして、横に立つと彼の指がぶ厚いアクリルガラスの遮った先、小さな魚の群れのさらに向こうの方を示した。
…この水族館一番の自慢の展示のジンベエザメ。「まだ若い個体」って通路入り口にあったパネルに書いてあったような気がする。水槽全体の広さのお陰でかこんな狭いところに押し込めてごめんなさいって感じもなく、お腹の下に何匹もコバンザメを引き連れて悠々と泳ぐ様子は王様の風格だ。
「大きは5m位ってあったっけ?やっぱり大きいね」
「あんな図体でも食べるのが小エビだけとか本当適者生存ってのは複雑怪奇だよね」
「そうなの?」
「解説全部読まなかった?ジンベエザメって餌を探してあくせくするより取るのに困らないようなものを餌にする方を選んだんだってさ。ただ口をわーって開けて泳いでれば中に入ってくるようなやつをね。結果としては良かったんじゃないの、あれだけ大きく育てば天敵なんていなさそうだし」
彼の得意技。でもそのパネルの文章を諳んじる様子は楽しそう。頷き、もう少しジンベエザメの近くに寄れないかと前に進もうとして、天も底もよく見えないような深い水槽の方に視線を集中していたせいかふいと遠近感がおかしなことになった。何もない場所平らな床なのにつまづいたように足がもつれる。
「と、気をつけてよ。こんなところで転ぶなんて」
傾いだ体はイザンの腕が支えてくれた。ありがとうと言おうとすると、そのまま後ろから彼の両腕が自分の腰に回った。真正面のガラスに彼が自分の耳にキスするのが映る。啄ばまれたような感覚に思わず声を上げた。
「…ちょっと、イザンくん?」
「だって別に誰ーも他の奴のことなんて気にしてないでしょ?晶乃もいつまでも堅いったらないんだから」
「え?」
そうしたまま周りを見てみてよと彼に促されたから恐る恐る視線を巡らすと、確かにそこここの恋人同士らしい二人連れは魚を見てるのかそれとも水槽の中身は気分を盛り上げる為のおまけ的な何かなのかって感じで重なったスプーンみたいにぴったり寄り添ってる人たちばっかりだ。
「ね」
イザンの腕に力が篭った。ぎゅっ、て。
「あ、あそこ空いてる」
「えー?」
大水槽の付近が閑散としてた理由はエリアを出てすぐの屋外の案内板を見たらわかった。週末でも日に三度しかやらないイルカのショーが開演間近い時間帯だったのらしい。折角こういうところに来たんだしとショー専用プール併設の階段状の観客席に向かうと気合の入ってる人達は開演時間の随分前から場所取りをしてたようでこちらは人がみっしりしてて、変に空いてる場所があったと思ったらそこはプールのど真ん前、最前列の水かぶりの場所だった。
「やめとかない?風邪引くよ?ボクは引かないけど。見るだけならここからでも見えるし」
観客席の最上段からどうやら前のショーの時の水溜りが座席下に残ったままの最前列席と既にぎゅうぎゅうの他の席とを見比べるとイザンはちょっとご遠慮申し上げたいって感じで言った。
「…いいの。私が見たいから」
でも構わず観客席を下ると後ろから笑いを含んだ声が追いかけてくる。
「なんだ、何か怒ってる?物足りなかった?ひょっとして」
「別に何も」
それでも彼は自分の横に腰掛けて、そしてショーは始まった。
トレーナーの人が軽快な音楽と一緒にプール中央ステージに出てくると観客に向かって挨拶、次いで合図でステージ両脇の待機場所からからイルカが二頭づつ、波柱を立てて泳ぎ入ってくる。―見事に揃ってジャンプと着水。ばんと水飛沫が上がって勿論のことながらそういう席なので頭から水。
「…やっぱりやめとけばよかったかも」
イルカがステージの縁に上がってきゅーきゅーと一頭づつ挨拶を披露し魚を貰ってる間に手持ちのバッグからハンカチでも出そうかと思ったけどそんなのじゃ無理だとわかって止めた。下手なタイミングで開けたらバッグの中身まで水浸しだ。
「ボクをつきあわせといて今更そんなこと言わないでよね。…ほら次のジャンプ来るよ!」
ご褒美を済ませたイルカがプールを旋回し空中に張ったワイヤーに下がったボールをジャンプしてスピン、尻尾で叩いて着水、のタイミングで思いっきりイザンに引き寄せられた。
「晶乃もボクにくっついてくっついて!表面積減らした方が濡れる面積も減るんだからっ」
「あのね」
そりゃ見たいって言い切ったのは自分だしイザンは止めようって言ったけどこれは何だか嵌められた感というかしくじった感というか。
ざざんと水飛沫。
プールに入ったトレーナーの人の足元をイルカが二頭サーフボードのように支え上げたままプールを一周したところで空中高くに放り出し、トレーナーの人はダイナミックなサルトで着水。
水飛沫。
水飛沫。
水飛沫。
多分そんな客は一日に何度も来るんだろう、ショップの人はこっちを見るなりキャッシャー横の篭に重ねたタオルを指し示してくれた。水族館のマスコットキャラも魚も何もプリントされてないシンプルでそこそこ大きくて吸水性だけは良さそうな奴。
「今日はシャワー浴びなくていいか」
大雑把にあちこちタオルをあてがうとイザンは呟いた。
売店フロアの隅のベンチを借りて髪や服を拭うと真夏じゃないけど低いわけでもない気温が味方したのか思ったよりタオルは水っ気を吸ってないみたい。でも服の袖口を鼻に当ててみた。
「そう?何だか自分が塩辛い感じがしない?イルカ用のプールの水だし」
「人がちゃんと止めたのに聞かなかったんだから自業自得ー。それに正々堂々晶乃とくっつけて楽しかったよ、ボクは」
笑われてる。なんとなく居心地の悪い気分の向けどころも思いつかなくて乱暴にタオルを動かした。話題を変えてみたいんだけど。
「…あ、そうだ」
思いついてタオルをバッグの中にしまい立ち上がった。
「何?」
「ショーを見てたらイルカちゃんのこと思い出したの。イルカちゃんって確かラボから離れられないんだよね?こういうところのお土産とか喜んでくれるかな」
こちらのイルカは人の男の子だけどでもきっと色々とある子。目の前の彼と同じく。
ちょっと強引な方向転換に異議申し立てもなくイザンがついてきてくれたのでショップの中を見渡してみた。ぬいぐるみ…はかわいいし自分は好きだけど男の子受けするのか自信がない。海の生き物のミニフィギュア…はあんまり細かいとあの年位だと難しいかも。でも無難なお菓子類って確かあの子は何か食べ物制限的なものがあったような気がする。
「こんなのは?」
イザンが棚に下がっている何かを指した。
ピースが一つ一つ魚の形になってるパズルだ。ピース数はそんなに多くないけど形が少し複雑ですぐに出来上がっちゃってつまんないってのも避けられそう。どうやらこれがベスト。
「うん、いいかも。ありがとう」
「チビも退屈してるからたまにはラボに来て一緒に組んでやりなよ。いつもおつきあいしてるのはボクとか宗親とか高柳とか馴染みの奴ばっかりだし珍しい人間が顔を出して相手して貰えたら喜ぶから」
イザンはパズルの盤面を軽く弾いた。
「そうなの?じゃあ私が直接お邪魔して渡しても大丈夫?」
ラボは会社なんだから社員の家族でもそんなに気軽に訪ねて行ったりする場所じゃないって思ってたけど。でもきっと返ってくるイルカのにっこりを考えると楽しみだ。
「それにラボにも静かでいい場所あるしね」
…ええと?
イザンは手早くパズルを取り上げるとキャッシャーに向かってしまって、その背中にかける言葉も咄嗟には思い浮かばずただ見送るしかなかった。
※宣言した通りおデートVer.2。小ネタでは面倒なので各話との繋がりはない前提で書くようにしてるけど美術館編より大分二人の距離が近いしイザンが晶乃に積極的にちょっかい出してるのは多分色々ふっ切れた後だからかと。だって本編があんなんでいちゃいちゃしてる話書くのもな※