美術館の中はうっそりと静かだった。
元々この美術館は趣味はいいけれど規模があまり大きくないので知る人ぞ知る的隠れ家的な場所らしく、なるほど人影が殆どない。大きな美術館の企画展に行けば学芸員がフロアの片隅で椅子に座ってたりするものだけどそういった人間はこの美術館では配置されていないのらしい。そしてまた平日にわざわざこんなところに来ようという人間も少ないのだろう人影は自分と、それにフロアに入ってからは互いのペースで見ようねと自然に分かれた彼の姿が時折ちらりちらりと横切るだけだ。
建物自体が広くない正方形でない敷地にあるせいでフロアは長方形の一角と一角が重なり合っているような形となっており一旦足を踏み入れると出口がどの辺りにあるのか見渡せず、押さえられた明るさのライトに照らされた大きなキャンバスと奇妙な角と面で構成された石膏の造形物、時折響く空調の音がかもす均衡は何だか不思議な感じ。
展示はその画家の晩年近くの作品から始まって、そのルーツを辿るような順番になっていた。
『上京してからも生活は困窮を極めたが絵への情熱は止まず、ノート等にデッサンを続けた。特に彼が好んで描いたのは市井で生きる人々である』
―ガラスのケースの中に大分茶色くなってしまってるノートが広げてある。ノートの1ページを使って鉛筆でデッサン。篭を背負ったおばあさん。全身とその皺の寄った横顔と。
『…そしてそのような彼のファム・ファタルとなったのは……画学校で出会った…………だった。それまでの彼の作品は精密で単調な色彩のものが多かったが彼女との出会いを境に徐々に変わってゆく』
―白黒の写真。二人だけじゃなくて十人位の集合写真。女の人は一人しかいないからこの人だってわかるけど本人はどの人だろう。貰ったリーフレットに顔写真載ってたっけ。
―そして大きなキャンバスの人物画。椅子にかけた女の人。そうかさっきの写真の中の人だ。デッサンとは勿論鉛筆と油彩だから比べるものじゃないんだろうけど明るい色で和やかな感じ。何だか描いた人の気分が伝わるような。
「この時代は伴侶に恵まれまたパトロンを得て彼の人生において最も幸福かつ充実した時期であった。筆致は孤独な時代とはがらりと変わり太い筆を用いた大胆なものになり、好んで明るい色を配置するようになる」
「うん…えっ?」
急に横から、それも耳元付近で声をかけられたのにびっくりして振り返るとほんの間近に彼の顔があって―でも彼が人差し指を唇にあてて小さく首を振ったので収まりの悪い気分で頷いて。
「…いつからいたの?」
「ついさっき。随分熱心に見てるなと思って」
「っていうかさっきのってこの絵の解説だったの?何も書いてないのに」
キャンバスの下には絵のタイトルが書かれた白いプレートが貼ってあるだけなのにさっきのはどこから引いてきた言葉なのか、疑問を口に出すと彼は平然として返した。
「リーフレットに書いてあったから覚えた」
言われて、リーフレットを裏返すとそこには目の前の絵の解説が数行。ただしほんの目立たない隅っこのほうだ。
「凄いんだね、こんなところのまで覚えちゃうって」
「こういう時はお得な能力だよね。リーフレットをめくる数秒を惜しんだって損するわけじゃないけどお陰でいいことがわかった」
彼は笑う。
「…え?」
「晶乃は何かに集中すると唇をとんがらす癖があるの。でもそういう顔も嫌いじゃないよボク」
数秒、自分がどんな顔をしてたのか想像して恥ずかしくなって手を軽く振り上げると彼はまた笑って唇に指を当てた。お静かにねって。
多角形のフロアの一階と二階を巡り終えるとそこはミュージアムショップ併設の喫茶スペースになっていた。
作品展示のフロアには日光を防ぐ為にか窓一つなかったけれど喫茶スペースは壁一面にガラスが張ってあってフロアから出てくると気持のいい光に満ちている。そこからはよく手入れのされた芝生も青い庭ときちんと刈り込まれた生垣が見えて趣は違うけどまた何かを表現している場所のようだ。
「…ちょっと意外だったかな」
他に誰もいないようなので遠慮なく一番見晴らしのいい席に座り、ケーキセットを前に出てきたのはそんな言葉だった。
「何が意外?」
「イザンくんは美術館とかじゃなくてもう少し賑やかなところの方が好きかなって思ってたから」
学校行事の振り替えで平日がぽっかり休みになり、そして幸運なことに差し迫ったテストの予定もなければ仕事もなくて、目についたのは学園の事務室の前にまとめて置いてあった市内の小さな美術館の特別展のチケットだった。元気な高校生がそういう場所に行こうなんて殊勝な気分になることもないのかチケットはかなりの枚数が引き取り手もないまま有効期限はぎりぎりだった。たまたま二人揃ってそれを見つけてここでもよくない?って合意したのは昨日の下校時だ。
「そう?前も言ったけどボクはこういう日常が非日常に切り替わるのが見られる場所って好きなんだけど。人もいないし静かだしあのまま薄っ暗い部屋の中でキャンバスの中から人食いの怪物が出てきてもおかしくないような雰囲気がね」
冗談なのか本気なのかはわからないけどイザンは言って香りも高い紅茶のカップを傾ける。
「あはは、それは斬新な解釈かも」
彼は展示物を一つづつしっかりと見ていて、目を惹いた展示から先に見ていた自分とは違ったからフロアの中では別々に歩いていたのだけどどういう意図と解釈で絵を見るのかもまあ人それぞれ。
「晶乃こそこういう場所でよかった?頭酷使してるからこんなお堅いところじゃなくて脱力系のアミューズメントとかの方が楽しかったんじゃない?」
「ううん私もそんなに難しいこと考えて絵を見てたわけじゃないし充分脱力したよ?」
「それなら二人共ちゃんとリフレッシュしたってことでめでたしめでたし」
「だよね」
静かな時間がちょっと流れて、あまりに人の気配が薄いからひょっとしてここはセルフでお皿も返さないとなのかな、と、キッチンのカウンターの方を振り返るとふと目についたのは背が高 い茶色い四角いものだった。周りのアンティーク調の什器と馴染んでいて気がつかなかったけどどうやらそれらとは違うものだ。
立ち上がりその四角いものの前に行くとそのものの前面に嵌っているガラスに小さな紙が貼ってある。
『コイン式のオルゴールです お聞きになりたい方は店員にお声掛けください』
そういえば何かテレビとかで見たことあるかもしれないとぼんやり思い出す。これは古い形のオルゴールだ。きっとガラスの奥に見える沢山の小さな穴の開いた丸いものは演奏用の金属ディスク。
「聞きたい?」
またいつの間にやら横にはイザンが立っていて、驚き慣れたというか諦めたので素直に頷くと彼はさっさとキッチンの奥に引っ込んでいた店員に声を掛けた。受け取ったコインをスロットに入れるとゆっくりディスクが回転し始めて、流れてきたのは特徴的なメロディだった。
「あ、金平糖の精の踊り」
記憶の井戸からその名前は涌き出てきた。
「っていう曲なの?」
イザンは小首を傾げた。
「イザンくんでも知らないことってあるんだ?」
「何それ、ボクだって知らないことなんていくらでもあるよ」
彼は軽く目を閉じる。
「…こういう音だって嫌いじゃないし」
その拗ねたような横顔―同級生の男の子達と比べるとまだ柔らかい感じのある頬の線や、ハーフ故か長く揃った睫毛や、…もう見慣れた筈だけど見ようと意識して見るとまた印象は結構違う、でもとても好きな顔だ―を見て、なるほどこんないいこともあるんだとこっそり思えたりしたのだった。
※高校生が美術館でおデートは難易度が高いような気がした。水族館の方が良かったような気もする。某K市の某O美術館的なイメージでおひとつふたつ。