異例とも言える長い期間の不在を経て国主が帰ったその日、当然ながら城は大騒ぎになった。
主は無責任なことをよしとする性格ではなく用心深く十重二十重の段取りを整えてから城を後にした。
騒ぎの原因は勿論家臣達が主の無事と帰還を喜んだということもあるがそれに更にもう一つ、横に見慣れない少女を連れていたことだった。
上げた自分の両脇を細い腕が通って腰のあたりで帯を交差させると腹の前に戻ってくる。軽く結んでこれでよしということらしく女性の腕は離れた。
「…今日はごめんなさい、ここは他の国と交流がないわけではないのですが大陸の方とは違って気軽に行き来できないものですから他所の方が来ると何かにつけてやかましくなってしまって」
上っ面でなくこちらを気遣ってくれているのがありありと伝わる表情と口調に却って申し訳ないような気分になり、とんでもないと首を振った。
確かに大変な一日ではあった。
城に到着し旅装を解くなり開かれた評定で国主は、山本乱義はしばらくの間異国からの客人を城に置くと静かに言い放った。客人とは乱義の異母妹であり大陸で未だ多数の信徒を抱える異教の法王の娘、つまり自分のことだ。
母と二人きりの田舎でひっそりとした静かな生活で今まで深く考えずに過ごしてこられたけれど出る場所に出ればその意味は激しく変わる…ということを思い知ったのがたった半日前。
けれどこの国は異国の破天荒な人間を客将として迎えたことがそれほど遠くない昔にあったのらしい。それが割拠していた国を纏める基となり、その客将がそもそも国主と妹の父親だということが家臣達に思い出されるのに時間はかからず、また国主も妹は己が出立する前、方々に湧き出た鬼共を退治するのに協力してくれた者だと言い添えて何とかその場は収まった。
乱義は評定の場で話の流れを見守り、所々で妹が不利にならないようにと言葉を挟み、納得しない様子の者も何人かはいたものの結局黙らせてしまった。多分こんなのは彼の日常的な業なんだろう。
けれどその場に最後まで同席していた人間からすればただ疲れたという感想しか持てず、ぐったりしていたところへ不意に現れてこちらにと手を引いてくれたのは以前乱義に協力を請いに訪れた際に顔を合わせた女性―香姫だ。
そして騒がしい場所を離れしまって奥の間に移り、こちらの荷を見るなり驚いたような顔をされたのだった。何せ乱義が母と話を取り付けてしまうと慌ただしく村を発ったから手持ちはほんのわずかだったので。
こんな風に着の身着のままでエールさんを連れてくるなんて乱義さんも急いでたのかしら、という訝し気な呟きが漏れて、しかし彼女の行動は早かった。侍女を呼ぶと何かを言いつけほどなく届けられたのはこちら風の、それも多分動き易さを一番にした服の一揃えだ。
「もうこの服で休んで頂いて大丈夫ですから…お部屋に案内させますから他の服もお持ちになってください。それとその前に、少しお話させてもらっていいですか」
着せてくれた服の裾を仕上げるように軽く引っ張って直すと、座るように促された。言われた通りにすると香姫と相向かう姿勢になる。
確か目の前の女性はこの国の摂政だとかいう話はぼんやりと覚えていた。けれど長くつややかな髪や整った顔立ち、柔らかな物腰と雰囲気は政に身を奉じている人とはまたかけ離れているように感じられた。
香姫もこちらの顔を見ると、ふふ、と、笑った。
「初めてお会いした時も思いましたがエールさんはお母様に似ていらっしゃる。でも何となくですがちょっとした仕草がお父様に似てるような気もします…あの、ええとエールさんが男の子みたいだとかそういうのではないんです」
旅に出てから何かと両親の話を出されているような気がするけど母はともかく父のことは未だにぴんと来ていなかった。
何せ母は自分の父親が誰かという話をあの日まで口に出すことも匂わすようなこともなかったし、そんな毎日で気にしたことなんてなかったから魔王がどうとかいう話と父という単語は旅を経ても自分の中で上手く噛んでいない。
その男性は正気に戻ると自分と他の子らと二言三言を交わした後、自分達と協力して人に長い間仇なしてきたものを下した後はあっさり姿を消してしまって、これまでの苦労はともかくあの人は何だかそういう人なんだ…というのが脱力感を伴う結論だった。
「私の悪い癖です。魔王…いえランス兄様のお子さんとお会いする度にこの子はお父さん似とかお母さん似とか考えてしまうのは」
その笑いに薄く影が落ちた。
「ですが時々ちょっと羨ましいとも思います。だから私は乱義さんが我侭を言ってみたい気分になったのなら応援しようと思って」
言葉の繋がりに腑に落ちない気分になると、月にかかる雲が晴れるようにまた笑う。
「そうですねかわいらしい方ですし納得です。長々つきあわせてしまってしまってごめんなさい、お疲れですよね」
香姫が軽く手を打つと板張りの廊下を歩く足音が近づいてきた。
自分で喋る必要はほとんどなかったもののたった半日であまりに沢山の人と顔を合わせて行き交う会話に晒されたせいなのか、案内して貰った部屋に腰を落ち着け布団に顔を沈めてしまってもいつまでもいつまでも目の奥が鈍く重たく、耳のすぐそばで評定の場で聞こえた会話がまだ響いてるような気がした。多分長い間留守にしていた国主が旅の目的を果たしたのはめでたいけど自分のような者を連れ帰るなんてのはとんでもないことだったんだろうということが部外者にだってよく分かる。
いいんじゃないですか行ってらっしゃい
ほんの軽い調子で母は送り出してくれたけど、そういえば母は父を正気に戻す旅に自分を送り出した時もそんな感じだった。
「エール、エール…寝たのか」
唐突に降ってきた声に伏せていた布団から顔を上げた。その気配に気が付かなかったらしくすぐ近くの戸が開いていて、戸口に立っていたのは乱義だ。
彼はこちらを押し止める仕草をした。
「いやそのままでも大丈夫」
言われたからって横になったまま話すわけにもいかない、布団の上に体を起こすと乱義は部屋に入ってきて間近に腰を下ろした。流石に仕事の諸々は手を離れたのか彼もすっかり軽い装いだ。
「今日はずっと放ったままで済まなかったね。エールの話がついたと思ったら今度は父上の捜索隊の話が持ち込まれてしまって…ああそのことは明日にしようか。実は女の子を充分な支度もさせずに攫って来るとは何事ですかと香様に叱られたものだから」
苦笑が漏れ、こちらを見て軽く頷く。
「ここにあるもので賄えたようでよかった。足らないものがあれば手配するから言って貰えればいい」
と、乱義は表情を引き締めた。背筋をことさらまっすぐに伸ばし、ひたと見据えられる。そういえば以前邪な魔女が彼の目がきれいで気に入ったとか言ったことがあったけど確かに彼の濃い色の瞳が湛える光は淀みない。そしておそらく、彼がこういう様子の時は真剣だ。
「…でも僕は正直、他のつまらない人間に連れていかれる前にエールを攫えて良かったと思ってる。ここには口さがない者も居るが君のことがよく分かれば黙るだろうし僕も庇おう。…ただ君の気持をちゃんと聞かずに強引なことをしたんじゃないかとは思ってるけど」
…
ほんの何日か前、やっと家に帰って母と楽しい夕餉を過ごした翌朝のこと、母は家を訪れてきた乱義を出迎えて静かに彼の話を一通り聞くとこう答えた。
母としてはこの子の才能はともかくできることなら穏やかな生活を送って欲しいと思ってるんですが。でももしかして乱義さんが言ってない理由が他に何かあるならちょっと位は譲ってもいいです。そこら辺どうなんでしょう
変な間があって、そして自分の横の椅子にかけた乱義はこちらを向いた。
…
…
…
冗談ですよ、年齢が上がるとこうやって人をからかうのも楽しくなりますね。どうぞエールをお連れ下さい
母の言葉に頷く必要はなかったし断ることができない雰囲気でもなかった。旅の生活から帰ったばかりでまたすぐに遠い国に出発するなんてしなくてもよかった。それでもここにいるのは
「…別に、私も嫌じゃなかったから」
この一言以外の何物でもなかった。嫌ではない、の中に旅の間に重なった何だかもろもろとしたものが詰まっているような気もするけど言葉という形にするには少しあやふやすぎて、それを乱義にそのまま示せる自信はない。
「そうか」
彼の顔は綻んだ。身を乗り出し手を差し伸べてくると自分の手が取られ、彼の両手に挟まれる。
「それで充分だ。…ここに来てくれてありがとう」
そしておやすみと言い残して彼が去り、再び布団に体を横たえた後も瞼はなかなか重くならなかった。知らない場所に何も分からずやって来てしまった戸惑いも不安も相変わらず自分にまとわりついてはいたけれど、それでも。
嫌ではない、のはどうやら変わりそうにないということに気が付いて吐き出す息は自分でも不思議なほど深く長かった。