扉を閉める前に、そろそろ暁色に染まり始めた家の中を見渡して僕はあることに気がついた。
小さい頃から一人で暮らしてきてこの歳になるまで、僕は家の中の片づけでかなり苦労をしてきた。元々置いてあるものは多くないけれど暮らしてゆく中で、それでもあっちに散りこっちに散りしたもの達を整頓して、元の場所に置いて、見苦しくない程度に片づけることと僕は相性が悪かったしそれで周りの人に色々笑われたし注意もされた。
けれどハイラルから村へ帰ってきてから今まで、そういう苦労を全然していなかった。
荒れた家のまま放っておいた訳じゃない。旅の最中、気がつけば時々家に帰ってきて掃除して、一晩も泊まればまた出発したから僕が帰ってきた時には家の中は片づいたままだった。
また旅に出ようという今も綺麗なまま。調度はあるべき場所にあって、本は棚に収まり、台所の皿は使った数枚を除いて隅に積み重なったまま。
…僕が帰ってきてからこちら、何日も経ったけれど朝起きて仕事に出かけ晩には帰って寝る同じような毎日を送るばかりで生きてはいたけど生活はしてなかったんだ。
何だか薄ら寒い気分になって僕は扉を閉めた。
僕の足音を歓迎してエポナの嘶く声がした。
僕は窓框に腰かけて城下町を見下ろしていた。
大勢の人たちが互いに笑い合い、喋り合い、さんざめきながらひっきりなしに往来を行き交い、その賑やかさはそろそろ日が傾きかけているのに止む様子がない。それは何度訪れても、この城下町を覆うトワイライトが晴れてからいつも同じだった。
「そんなに町を上から見下ろすのって楽しいか?」
待つようにと言われてからこれまで、部屋の片隅で見つけた古い本を開いていたミドナはぱたりと本を閉じた。
あの時ミドナはすぐにでも影の世界に取って返したいような勢いだったけれどゼルダ様はそれを止めた。
ミドナを直々に鏡の間まで見送りたいけれどハイラル城はきっと混乱の元にある、城に戻って指揮する時間が欲しい、貴方も影の世界のことが心配だろうし一日とは言わないからせめて一晩待って貰えたらと。
ミドナは渋々ゼルダ様の言葉を飲んだ。
ゼルダ様の言葉の通り城内が混乱(トワイライトに沈んで以降兵士達はあちこちに散っていたしハイラルの至宝とも言われるゼルダ様は長く行方が判らなくなっていたし、そしてガノンドロフを打ち倒してからは城内に満ちていた邪悪の気配も魔物も何かの冗談のように消え失せていた)しているのをいいことに僕たちはさほど目立つことなく城の一室に籠もり、ゼルダ様からお呼びがかかるまで待つことになった。
「あんなことがあったのに平和だなって」
「そうか」
軽く伸びをすると本を置き、座っていた椅子から立ち上がって黒い姿が僕の方に歩み寄る。
「言っただろ。城には魔法が作用してたって。あれは望まない者を遠ざけるものなんだ、普通の人間ならここ何月も目に見えてたのは立派な城だけなんだよ。結界も魔物も目に映らないし城に近寄ろうとも思わない」
ミドナも窓框に手をつくと城下町を見下ろした。黄昏色の髪が流れてその横顔が隠れた。
赤い瞳が真っ直ぐに僕の方を向かない分、僕はその横顔をじっと見つめてしまっていた。
そう、呪いは解けた。駆け寄った僕に綺麗すぎて言葉も出ないかとミドナはからかった。それが小鬼の時のミドナそのままだったのでやっと子鬼の姿と、そして目の前に立つ人が重なったようなものだった。
その言葉に少しも違うことなく、言い返そうなんて思いつきもしない程ミドナは綺麗だった。ハイラルの人間とはちょっと違う肌の色味と整った彫りの深い顔立ちと、黄昏色の長い髪、それに僕をゆうに越える長身。
以前子鬼の姿を蔑んでいた理由もこれならとよくわかった。
そして僕はミドナとちゃんと目を合わすことができないでいた。姿は変わっても中身はミドナの筈なのに。
「…それとも国を救った勇者様とあがめられたいのか?リンクは」
僕は首を振った。旅してきたのはそんなことの為じゃない。
平和な生活があって、それが明日も、明後日も、いつまでも続くと信じられることはとても幸せなことなんだと今は思うし、それにあえて波風を立てようとは思えない。
しばらく無言で城下を見ていたミドナは顔を上げると、何かに気がついたように僕の方を向いて僕の手を取った。
僕の手に細くて、たおやかな手が重なった。それは僕の節くれた手には随分とそぐわないもののような気がしたけれど、掴もうとして叶わなかった手でもあることを思い出して、僕は握り返していた。
「…ごめん」
「どうしてだよ」
「何があっても一緒だって言ったけど間に合わなかった」
形のいい唇がほころんだ。この姿に戻れたミドナの笑顔-のようなもの-を、初めて見たような気がした。
「でもリンクは一番最初に牢で会った時からずっと一緒にいてくれただろう?色々気に入らないこともあったろうにさ…私一人きりじゃ旅は続けられなかったんだ。どんな感謝でも足りない」
急に、僕の中で何かがすとんと落ちた。
「じゃあどうして一人でガノンドロフに挑むなんてこと」
僕があの時からずっとひっかかってたのはこれだった。僕がどう思ってるかには関係なく、僕はミドナに最後まで一緒に戦える仲間と認められなかったのかと思ってた。だからミドナは一人きりでガノンドロフに向かっていったのかと。
ミドナは目を伏せた。僅かに唇が動いて、そしてきつく結ばれた。
…何を言おうとしてたんだろう?
「…おかしいよな」
僕にもう一度向いた笑顔は取り繕うようだった。沈黙を守り続けてた小鬼のミドナの姿が何となく見え隠れする。
「何が?」
「元に戻れたってのにまだリンクの手の方が大きい」
違う。そんなことじゃない。
聞こう。もう何も隠すことなんてない筈だから。
聞かないでおこう。ミドナが触れて欲しくないことには今までもそうしてきたんだから。
二つの気持ちがせめぎ合って、けれど、僕の口から出てきたのはこんな言葉だった。
「ミドナ、また会える?」
…何を言ってるんだろう、僕は。
ミドナは小さく首を振った。
「姫さんにも聞いてみろよ。鏡を守ってるのはこの世界の賢者達なんだし私一人で決められることじゃないだろ」
そこで丁度、部屋の扉が叩かれる音がしたのでその話はそれきりになった。
ミドナと僕と、ゼルダ様と二人きりで話す時間がほんの少しだけど設けられて、また部屋に戻ってきた時にはそんな話は最初からなかったとでもいうように触れられないままだった。
いつも、後になってからわかることばかりだけど僕はその時にちゃんと聞いておかないといけなかった。
陰りの鏡はミドナの涙で粉々に砕かれ、その機会は永久に失われた。
…本当に永久なんだろうか。
平和な生活があって、それが明日も、明後日も、いつまでも続くって信じられるのは幸せなことだと今でも思う。
でもそれは一緒に笑ったり泣いたりできる大事な人がいてこそなんだ。
村の皆がその大事な人たちじゃないっていうつもりはない。
ミドナがその人だっていう自信もない。
でも僕はもう一度ミドナに聞いてみようと思う。
そしてできたら、僕の気持ちもミドナに伝えてみようと思う。
僕のどうしても届かなかった手がミドナに取られたみたいに、ミドナが自分は一人じゃないって知ってたみたいに、絶対に叶わないし伝わらないことじゃない気がするから。
朝の冷え冷えとした空気の中、僕は鐙に脚をかけてエポナに跨ると旋回させ北に、森を出る方角に向けた。