出立の準備を整えるのにそれほどの時間は要らなかった。勢いに任せて飛び出したようなものだったから荷物も最低限、それでも何か忘れたものはないかと部屋の中を見渡して、リンクはここ数日その存在をすっかり忘れていた、というか忘れようとしていたものを視界の端に認めた。
リンクは複雑な思いでそれを取り上げた。
朝日が差す部屋の中で目覚めてみればそれはしっかりと枕元に置かれていた。
急いで男の部屋を尋ねるとそこは人が居た気配も感じられない位の空で、階下に降りて女将に尋ねてみればあの男は夜も明けないうちに出立したという。
自分がどうしてこんなものを持って帰ってきたのかも、そして財布の中身がほんのわずかに減っているのも、わからないことだらけだった。
勿論くだらないおもちゃだと仮面をへし折り捨てることだってできた筈だった。
でも仮面はその翌朝も、その翌朝も、そしてタルミナに向けて出発しようという今朝に至るまで傷一つつかずにここにある。
どうしてなのか、理由はよくわかった。
何かに迷ってらっしゃるのではないですか?
出会ったばかりの人間にそのものずばりを言い当てられた薄気味悪さとそんなことをしたら男の指摘を裏付けるだけだという気づきが仮面を壊そうとする手を止めたのだ。
そして三日の間仮面は部屋に出入りする自分をじっと見張っていたのだった。
その赤い目で。
…じゃあどうしたらいい?
仮面を持つ手に知らず知らずのうちに力がこもった。
知ることを恐れてはなりません
恐くなんかない。また会うことがればタルミナで男に仮面を返してもいい。この宿に忘れていっても構わない。所詮仮面だ
仮面に尋ねてごらんなさい
尋ねるまでもない、僕の望みは一つだ。だからこの手を放して
あなたの本当の望みをあなたの目に
僕はこうやっていつでも人から背中を押されないと何も出来ない奴だったのか?そうじゃない筈。僕は自分で進む、だからこの手を
指が自分では制御できない生き物のようにがたがたと震えだした。
異常な、今まで感じたこともないような種類の力が部屋に満ちる気配があって、リンクは仮面から手を放そうとし、それができないと悟るとせめて仮面を壁に叩きつけようと腕をしならせた。
主の言うことを聞かなくなった腕が仮面を顔に近づけようとして、そしてまた抗いというせめぎ合いが永劫とも思える時間続いて、そして目の前が真っ暗になった。
しばらくの混乱の後に急に視界が開け、リンクは目を瞠った。
世界が黄昏色に染まっていた。
先刻まで朝の宿の一室にいたはずなのに両足は大地を踏みしめていて、ぐるりを取り囲んでいるのは黒々と繁る森の木々。
冷たい空気と肌がぴりぴりするような奇妙な緊張感。
この感覚は…忘れられる訳がない。
そしてほんの近くに狼の姿があった。
額の模様と青い瞳。
これも忘れられる訳がない、トワイライトの世界で獣と化した自分の姿だった。
狼は空を見上げると黄昏色の世界の彼方、影の世界の存在をその目で、その耳で、その鼻で、体を覆う毛の一筋一筋で感じ取り駆け出した。
元々、光の世界と影の世界は表裏一体の世界。影の世界はすぐそこに、その手で触れられそうなほど近く、駆けなければ追いつかないほど遠い。人の身ではそれを感じ取ることさえ適わなかったけれど、今はありありとわかる。
黄昏色の空の下を狼の後を追って自らも駆け出す。
狼の全ての感覚は自分の感覚で、狼の望みは自分の望み。
望みは一つ、たった一つ。
判りきったことだった。
駆けて。
(この世にはもう一つの世界があるってこと…忘れないでくれよ)
駆けて。
(私は全てを賭けて否定してやるよ!)
駆けて。
(影の世界っていうのはさ…あの世とか言われたりするけどそうじゃないんだ)
駆けて。
(一緒に…行ってくれないか?)
駆けて。
(なあ…リンク、あんたに頼みがあるんだ)
駆けて。
(だから…姫さん…頼むよ…リンクを助けてやってくれよ!)
駆けて。
(まあとにかく約束は約束だからな、信用して手伝ってやるよ)
駆けて。
(なんなら、このミドナが手伝ってやってもいいんだぞ?)
…何か、非常な力に阻まれた…けれども駆けて駆けて駆けて。
駆けて。
駆けて。
(…見ぃつけた!)
頭上から聞き覚えのある、けれど懐かしい声が降ってきた。
「何やってんだ、馬鹿」