そしてまたリンクはとある地方の宿に居た。
「…ほらお母さん言ったでしょ、この人はカーニバルを見に来た人じゃないって」
この地方を歩き回る足場にしようと定めた宿の食堂で、茶色い髪に茶色い瞳の娘は自分の予想が当たったと手を叩いて得意そうに言った。
娘の母、つまりこの宿の女将はちょっとばつが悪そうにした。
「あらそうでしたか。私お客様がそんな格好をしてらっしゃるからてっきり」
「お母さん失礼よ!」
口をとがらせる娘の抗議の真剣さに、女将はどうぞ気を悪くしないでくださいと詫びた。
この緑色の服へのこういう反応にはもう慣れっこだったのでリンクは首を振った。
ちょっとご一緒してもいいかしらという言葉に頷くと、女将が同じテーブルにかける。娘も一度厨房に引っ込むと、ありあわせのものを盛った皿を携えてきてそれに加わった。
「いえねお客様がカーニバルを見に来た方だったらもう出発しないと間に合わないのにねって話を今朝してたところだったんですよ」
「カーニバルですか?」
自分の前に置かれたカップに謝意を示すとリンクは手に取った。
「そう。ここからずっと東に行くとタルミナという街がありましてね、毎年この月の朔望が満月の時に賑やかなカーニバルが催されるものですからよそから見に来るお客様が多いんです」
「ほら、うちなんてちっちゃい宿だけどここはこの街道筋で丁度タルミナへの中継地点だからこの時期は凄く忙しいの」
母と娘は目を見合わせた。
年経て風合いのある垂木が露出した天井と白い壁、磨き込まれた床の食堂の広さは小さい宿と言う割にはなかなかのものでテーブルも数が揃っていたが、母娘とリンクがかけている席の他はちょっと離れたところに一人の男性がいるだけだった。
「女手二人で毎日てんてこまいだけどカーニバルが始まる二日前になったら皆出ていっちゃうからそりゃもう疲れたーって感じよ?だけどお客さんってば毎日難しい顔して出てったり帰ってきたりでなんか他の人と違うなって」
「だからいっぺんお誘いしてみたいって言ったのね?」
「もう、お母さんったら!」
そのやりとりにリンクは笑った。こんな風に笑うのも久しぶりのような気がした。
「ねえねえお客さんはハイラルの方でしょ?その訛りでわかるわ。なんでまたこんなとこに?」
女将は一瞬娘に鋭い視線をくれた。過ぎたことを聞くものではないと警告したようだった。けれど特別聞かれて困ることでもないしとリンクは答えた。
「ちょっと人捜し…かな」
「人を?だったらやっぱりタルミナへ行ってみるといいんじゃないのかしら。あそこはなんていってもここらじゃ一番人が集まるところだから」
「そうしてみるよ、ありがとう」
「…ねえ、ところでその人って女の人?」
娘は小首を傾げて尋ねた。
「そうかも」
「ふーん」
急にぷいとあさっての方を向くと、娘は足早に厨房の方に戻っていった。
女将はごめんなさいねと笑いかけると娘の後に続いた。
部屋に戻るともうすっかり暮れていたので備え付けのランタンに明かりを灯し、リンクはどさりと寝台に腰を下ろした。
手がかりを求めて、ただ一筋の光を求めて、無を有にする手段を求めて。
聖地と呼ばれるハイラルを後にしてから季節は何度か巡った。
脅威が去った後の世界は穏やか過ぎて剣を振ることも滅多になく、そんな日々の中で「わからない」ということがわかっただけの影の世界の存在や、そこへ至る道筋を探し求めあてもなく旅を続けることにふと疑問を感じては打ち消すことの連続、自分のしていることがまるきりの無駄に終わるのではないかという恐怖を追い払うことの連続だった。
このまま自力で影の世界を追い求めるのことが果たして正しいのか。
それともハイラルへ戻ってゼルダに頭を垂れるのが正しいのか。
そしてあの何事も見通す涼やかな水晶の瞳と深い思慮を備えた姫君に自分の望みを告げるのが正しいのか。
拳で眉間を押さえて溜息をつきかけている自分に苦笑して、頭を一振りする。
エポナ。明日も早いのだし飼い葉を足しておいてやらないと。
そして扉を開け放ち外に出ようとした途端に何かとぶつかった衝撃があって、どすんという音がした。
「あいたたた!」
床に尻餅をついた人物をリンクは慌てて助け起こした。
「すいません大丈夫ですか!?」
「何、大したことありません」
髪をぺたりと撫でつけた、糸のような細い目をした小男だった。
その男の服についた埃を払いながらリンクはふと気がついた。
借りている部屋は建物の棟の一番端だ。他の客が前を通ったりする気遣いはない筈なのに。
「僕に御用でも?」
言うと、男は飛び跳ねるように立ち上がった。
「おお、失礼しました!」
頭を下げると手を胸の前で組んでリンクの頭のてっぺんから足元までをじっと見る。
こういう視線は以前も経験したような気がした。
「先程食堂であなたをお見かけしまして、いえ、お気づきではなかったでしょうがちょっと前から私もこちらに投宿しておりまして、ずっとあなたの姿を拝見しておったのですがあまりに私の知っている方によく似てらっしゃるので一度お話ししたいと思って参りました」
心からのものではなく顔に張りついた笑いと、穏和に見えるけれどその実抜け目なさそうな視線と淀みない話し方で何かの商売をしている人間なのではないかと察しはついた。
まるでその考えを読んだかのように男はつけたした。
「私お面を商って方々を旅しております者です」
「…お面?」
「そう、カーニバルともなれば道化る扮装も売れますのでね。毎年この時期はタルミナに参りますが今年は体調を崩しましてここに長逗留になってしまいました。どうでしょうここで立ち話もなんですし私の部屋へおいでになっていくつかご覧になりませんか」
今日はきっとこうやって思いもよらない人に声をかけられる日なんだろう。それに部屋で悩んでいるよりは気も紛れるかもしれない。
不思議に吹っ切れた思いでリンクは歩き出した男の後に続いた。
男の部屋は自分の部屋とは調度の置いてある場所と窓のある壁の方向に違いがあるだけだったのだがその印象はかなりかけ離れていた。
寝台の上に、机の上に、床の上に、所狭しと置かれたお面、お面、お面。
あるものは獣の顔で、あるものは人の顔で、あるものは不可思議な紋様であちらやこちらを向いては笑ったり怒ったりしているようだった。
「随分数があるんですね?こんなに広げたらまたしまう時に大変なんじゃ」
部屋の中を見ては呆れ、そう言わずにはいられなかった。
「いえいえお面も生き物ですしたまにはこうやって広げて空気に晒さないと湿気て傷んでしまいますので」
男はお面の一つ一つをさも大事なものでも扱うようにそっと動かした。
リンクも適当な一つを手に取ってみた。白い地に人の目の形が赤く染めつけてある仮面だった。
そんな訳もないのにその目に睨みつけられたような気がして、ぎょっとして男に声をかける。
「…そういえばさっき僕が知り合いの人に似てるって言ってましたか」
「はい」
リンクに背中を向けてお面の位置を変えながら男は答えた。
「あなたより年下の方でしたがその面影と緑色の服がよく似てらっしゃいます」
「え?」
リンクは思わず自分の服を改めて見た。精霊に返し損ねた上、村で着ていた普段着よりはまだ旅に向いた服だろうと今まで手放していなかった緑色の服、あの日勇者の衣だと着せられた服を。
…これに似た服と面影?僕に似た人が?
「それはどういう…?」
男はくるりと振り返るとリンクが手にしたお面を見てぽんと手を打った。
「おお、それはまことの望みの仮面と申します!」
もみ手をしながらずいとリンクににじり寄る。
「そう、あの方も別れたお友達を捜しておいでだとおっしゃってました!いえいえそんなお顔をされずとも僭越ながら私あなたが食堂で女将と話してらっしゃることが聞こえておりましたので!あなたは実は今悩んでおいでなのではないですか?何かに迷ってらっしゃるのではないですか?わかりますともあなたが今手に取ったその仮面が何よりの証です!仮面は時として人を選ぶのです!人が仮面を選ぶのではありません!」
男の迫力と勢いに尋常でないものを感じて早く逃げ出した方がいいと思いながらも、自分でもわからない場所を小さな棘に刺されたような奇妙なもどかしさで足が動かない。
「悩むだなんて」
リンクは後じさった。
「そのように誤魔化さずともよろしい!仮面に尋ねてごらんなさい!その仮面はまことの望みの仮面、被ればたちどころにあなたの心の底からの、あなたの本当の望みをあなたの目に見せてくれる筈です!知ることを恐れてはなりません!」
男の声は既に絶叫に近く、リンクの耳を劈いた。
それからどうやって男の部屋を辞し自分の部屋に戻ったのか、よくわからなかった。