「…叔父上は」
私室に戻ると狼の濡れた体を乾いた布で包み、やや乱暴に拭いながらミドナは口を開いた。決して心楽しい話ではないが彼に状況の説明位はしておく必要がありそうだった。それに今この瞬間までうち解けて話せる相手もいなかったのだし。
「ザントが反乱を起こした時に王族で唯一宮殿の外に出ていて難を逃れた。だからこの世界がザントの支配から解かれた時も真っ先に立ち直って指揮を執ったんだ」
布がたっぷり水を含むと新しく取り替え、水気が大方拭い取れたのを確認すると暖炉に火をくべ、狼にそちらへ寄るようにと勧めた。
狼は謝意を示すと暖炉の真ん前まで行って丸くなった。その脇に腰を下ろす。
「この国に一人だけ残った王族のつもりで叔父上は即位する気満々だったんだろうな。死んだと思われてた私がここに戻ってきた時はちょっとした騒ぎになって」
何年も前のことなのにまだありありと思い出せる。忘れられる訳もない。叔父は宮殿に着いた己をザントの遣わした魔物か何かではないかとまで言ってのけた。幸い身の証はすぐに立てられたのだが。
「私のいない間に宮殿は叔父上の言うことを聞く人間ばかりで固められてた。私についても危急の際に逃げ出すとは何事だということになって…即位にはまだ未熟だと言われて今は叔父上が摂政だ。私に実権は殆ど無い」
狼は己の顔を見上げた。
暖炉の炎を反射して光る青い瞳に何事かを見透かされたような気がして、笑顔を作る。
「それはそれで気楽だけどな。ただ今度は叔父上の息のかかった男を婿にしろと言って聞かない」
それでミドナはあの人が好きじゃないんだね?好きじゃないって言うより大嫌いに近い
狼は小首を傾げた。
ミドナは狼の顔を両手で挟むとくしゃくしゃとかき回した。
「…やっぱりリンクは誤魔化せないか」
わかるよ。さっきも声が怖いなんてもんじゃなかった
裏庭から戻った時にも叔父と出くわし、二言三言のやりとりの後また一悶着になるかと思われたのだが叔父は狼の一睨みで退散していた。これでしばらくは呼び出されることもないだろうと内心胸を撫で下ろしたのだ。
僕が証言したらどう?ミドナは別に逃げてた訳じゃないって。光の世界で色々苦労してたんだって
「狼の証言が通ればな」
己の現状もそうだがリンクの置かれた状況もなかなか頭が痛いものであるのは確かで、それを考えると思わず小さな吐息が漏れた。
「でも悪い話じゃない。リンクを人の姿に戻すのを優先して考えてみよう」
急がなくても僕は大丈夫だけどね
首を振った。狼の顔を挟む手を三角形の耳の後ろにやり付け根を指先で撫でると、狼はくすぐったそうに首を反らせた。
「私にきちっと人の姿を見せろよ。何年も経ったんだからちょっとは格好良くなってんだろ?それにさ」
それに?
言うべきかそうでないかちょっと迷ったけれど。
「…結構好きだったんだぞ?リンクの髪の色とか…」
彼がはるか彼方の世界ではなく己のすぐ横に居てくれるのは心強くて嬉しいことだ。狼の中にリンクの魂があることは疑いようもない。けれどやはり人と獣の身では越えがたい壁が己と彼の間に隔たっているのもまた確かだった。己が小鬼の姿だった時のように。
それは初めて聞いた気がする
狼は上半身を起こすと前脚を己の膝の上に置いて身を乗り出した。ぐいと顔を己の顔に寄せてくる。
…僕もミドナの顔をちゃんと見たいかな
「え?」
狼の目はあまり良くないんだって前に話したことなかった?この姿だと匂いや音はよく判るけどものはぼんやりとしか見えないんだ。だからミドナの顔も…残念だけど
膝から脚を下ろすと狼は再び丸くなった。尻尾で鼻先を覆う。
…寝ても大丈夫?少し疲れた
「…ああ、ゆっくり休んどけ」
寝息を立て始めた狼の湿気た毛皮にミドナは指を走らせた。水を浴びせた時に毛皮の嵩が減ったので気がついたことだが狼は記憶にあるより随分痩せ細っていた。そういえば己のことを話しただけで彼が今までどこでどうしてきたのか聞きもしなかった。
「…ごめんな」
なるべくそっと狼の背中を撫でると、狼が身じろぎしたのに合わせて足輪の鎖が微かな金属音をたてた。すっかり忘れて忘れっぱなしだったけど足輪だっていい加減外してやらないといけない。
ミドナは狼の左前脚に触れた。
その左手の甲にはうっすらと聖なる三角の印があった。リンクの産まれた世界では創造神だがこの世界では厳罰を司る恐ろしい神の紋章だ。そして彼がかつて世界に選ばれた人間だった証でもある。
「…そうか」
思い至り、ミドナは狼の額に軽く手を置いた。
狼の左耳には青い石の小さな飾りが光っていた。
まだ影の世界の誰一人目を覚ましていないだろうという位の極々早い刻限に、ミドナは狼を伴うとこっそり宮殿から抜け出した。
宮殿を出てそのまま真っ直ぐ、この世界の中心と定められた円形の広場に降り立つ。
そこにはいつもと変わらず二つのソルが恭しく安置されており、柔らかな燐光で広大な世界を照らし続けていた。
狼と共にソルに近寄ると、狼の姿に変化が起こった。
四つ這いの姿が二本の脚で直立し、全身を覆う柔毛は緑色の衣に変わり、長い口吻が縮んでゆき、そして。
「…あ」
リンクは自身があるべき姿へ戻ったのを確かめるようにぎこちなく掌を広げ、体をひねりした。青白い光に照らされるその体は痩せこけてはいたものの想像よりは健やかそうに見えた。
「…前もそうだったな?ソルが近くにあればこの世界の大気に満ちてる影の結晶はリンクに害を及ぼさない」
「そうだけど、まさかソルを持って歩くの?」
「まさか。もっと気の利いた方法がある」
リンクに少しかがむように言うと彼の左耳から石の飾りを外した。耳飾りをソルの上に置き、定められた言葉を発すると耳飾りは一瞬消え失せ、また現れた。
「ソルの力をほんの少しこの飾りに借りるんだ。世界の恩人の為なんだからソルだって嫌って言わないだろ」
燐光を発し始めた耳飾りをもう一度、リンクの耳に嵌めると彼の背を軽く押しやった。
リンクの姿がソルから、ソルの発する光から遠ざかる…が、どこまで離れても狼には変化せず。
リンクは駆け戻った。
「良かった!」
「でも外したら元通りだ」
リンクは頷いた。彼の笑顔を見るのも久し振りだった。その優しげな笑顔は何年も前に一緒に旅をしていた頃と全く変わらずそのままで、不意に胸を締めつけられたような気分になった。
「どう?少しは格好良くなった?僕は」
視線に気がつくとリンクは屈託無く言ってみせた。多少の自負はあるのかもしれない、実際村娘の三人や四人好き勝手できる位いい男に成長したと見積もれた。ついでに言うとその中身もとびきり善良な人間であるのは己は良く知っている。
「…格好いいって胸張って言うにはまだ背が低い」
「…ひっどいな」
さほど傷ついた様子も見せずリンクは手を伸ばすと己の頬に軽く触れた。
「ミドナは前よりずっと綺麗になったけど」
「当然だ。褒めたって何も出ないぞ」
顔を見合わせ、笑い会う。その呼吸がひどく懐かしかった。
「…とにかくリンクの問題は解決したな。一旦宮殿に戻ろう、そろそろ皆起き出す」
引き返しかけると、リンクの声が追いかけてきた。
「待った」
「何だよ?」
振り返るとリンクは思案顔で自身の左耳に触れていた。
「昨日聞いたみたいにミドナが今色々難しい立場なら、この僕を連れて行くより狼の僕を連れて戻った方がいいんじゃない?」
「ええ?」
突拍子もない話に思わず聞き返す。
「説明が面倒なこともあるだろうし…それでまたミドナが大変なことになりそうならまだ狼が一緒の方が」
「…おい、何するつもりだ」
止める間もなく耳飾りは地に落ちた。それと同時に人の姿は消え失せ、狼の姿が己の足元に駆け寄った。
人に戻りたい時は言うから耳飾りはミドナが預かってて
狼は尻尾をぱたぱた振って平然と言った。
「…わざわざ人の姿に戻してやったってのに知らないぞ!?本当に何考えてんだ?」
でもこの姿だからできることもあると思うよ
燐光を放つ耳飾りを拾い上げると腹立ち紛れに早足で宮殿に向けて歩き出す。しかし奇妙に足取りの軽い狼はいつの間にか己の先を歩いていた。