…どうしよう。
靴のつま先ほんの50cm程先の茶色い水の流れを前に途方に暮れる。
雨水は傘の薄いナイロン地なんてお構い無しに骨を伝って随分な勢いで垂れてくるし更に悪いことに横風が吹いてるから全身はとっくにずぶ濡れになってる。
自宅マンションは住宅街として整地された区画の中にあって未舗装の道はない。近隣には溢れるような河川も水路も田圃もない筈だからよくある台風時のニュースみたいなことにはならないよねと学園を出てきたけど見通しが甘かったみたいだ。
あの道でもその道でも道路両脇の排水路を塞ぐコンクリートブロックのつなぎ目の穴からは雨水がちょっとした鉄砲水みたいな勢いで噴き出ていた。朝の天気予報は雨を告げていたけど傘を持参しただけでレインコートも長靴も用意はなく、仕方なく冠水しかけている道を避けて避けて通っているとマンションに近づいているのか遠ざかっているのかわからなくなってくる。
それでも迂回と接近を繰り返すうちに雨で灰色に霞んだマンションの影がぼんやりと遠く見える範囲に浮かんで、やっと辿り着けるとほっとしたらここから先の道は既に浅く冠水しかけだ。
…どうしよう。
この道も排水路から水が溢れかえっているけれども水はまだ浅い。プールなんかに比べればまだ浅いと言える。マンションは見えてるからもう大方水が染みてる靴のことは諦めて先に進もうか。
覚悟を決めて、冠水がこの先どの位続いているのかはわからないけどとにかく早く帰れるようにと、足に力を込めて一歩前へ。
―と。
雨の音に混ざって何かが聞こえたような気がした。雨粒が傘を打つ音、道路から溢れている水が流れる音ではなくて。
「…っち」
…え?
「晶乃、こっち!」
聞き覚えのある声に思わず振り返ると、そこには自分と同じく全身濡れ鼠になったイザンが傘をさして立っていた。
「…イザンくん?」
彼は寮生だからこんな日に外をうろうろする必要もない。なのに制服のまま、鞄も持ったままで。それにこの道は普段の自分の通学路からは外れてる。
彼は前髪についた水滴をうっとおしそうに払うと後方の道を指差した。
「そっちの道はもう向こうまで水浸し。遠回りになるけど着いて来いよ、走るから!」
「あ、うん!」
どしゃ降りの中、しかも傘も鞄も抱えたままという状態で許される限りのスピードでだったけど彼を追う。
「…でもどうしたのイザンくん、イザンくん寮生でしょ」
「晶乃って早く帰らなきゃって焦ってただろ。あと少し待ってたら通学の生徒は安全確保の為帰らずに学園で待機してろって全学年連絡が入ってたのに」
「そうだったの?」
確かに雨が小降りになった瞬間にこれがチャンスかもと急いで出てきたしそういう場合に一斉連絡メールが入る携帯は鞄の中だ。
イザンは傘を持ったまま器用に肩を竦めた。
「この前小曽根崎が最近晶乃はぼーっとしてるって言ってたけど追いかけてきて正解だったよ、わざわざ冠水してる道に突っ込もうとするんだもん。人はやる気を出せば洗面器に張った水でだって溺死できるんだからね」
「別にそんなつもりじゃなかったんだけど」
「言い訳はいいからほらそこの道を左」
町として作られた歴史も浅い場所だから元々そんなに複雑ではない道だ。けれども雨に視界を遮られてどこをどう走っているのか見当もつかず、それでもイザンに先導されるままに足を進めていると一度も冠水した場所に紛れ込むことなくびっくりする程唐突にマンションの前の道に出た。二人揃ってマンションエントランスのルーフ下に逃げ込む。
「…どうもありがとう」
大体最近は机と仲良くしてる時間が長いから息が切れてしまって声も小さくかすれてる。
「どういたしまして。じゃあ小曽根崎との約束も完了したしボクは帰るよ。風邪引かないようにね。受験生は体が資本なんだから」
自分とは反対にイザンは息切れも何もなく涼しい顔で地面に直に置いた傘を再度取り上げた。
「…え、帰っちゃうの?」
濡れ具合は彼も自分といい勝負だ。男の子の制服はスラックスだから足元付近は余計に悲惨そうにも見える。これからこの雨の中また時間をかけて学園へとなると体温調節できるとは言ってたけど色々と気にしないといけないのは彼の方なんじゃ。
雨は外でのことなのにざあざあという音が凄くて携帯の向こうの声が聞き取りづらい。
『…晶乃は学園を出たって聞いたからちゃんと家に着いてるか心配だったんだよ』
「少し間一髪って感じだったけど何とか」
『それでね、今道路が冠水してるしラボから出られそうにないんだ。帰るのは水が退いてからにするから遅くなっちゃいそうだけど』
「今ラボを出たらそれこそ死亡フラグってのだよお兄ちゃん。無理はしないで、私の方は大丈夫だし」
『あはは…まあそういうことだから。様子を見ながらだからいつ帰れるかわからないし待たないで寝てて。かなり早いけどおやすみ』
「おやすみなさい」
携帯を切ってそのままバスルームに向かうと中に声をかける。
「イザンくん、バスタオル置いておくから。それと替えの服も私ので良ければ着てね」
お兄ちゃんの、と言いたいところだったけれど二人は体格が全然違った。兄は男性としては線が細い風でも背はしっかり高くて腕も足も長く、イザンの体格は全体に小柄でむしろ自分の方に近い。実際面白半分に兄の服に腕や足を通し見た目と体感はこんなに違うんだと指の先でだぶつく布地を見て驚いたことがある。そんな記憶もあったから袖がだらんと余ってたり裾をずるずる引きずるような服を渡すのもそれはそれで失礼な感じがした。
ドアの向こうでシャワーの水音と彼の声がかぶって答えた。
「この際何でもいいよ」
だから選んだ男の子が着ても変じゃないでしょうって無地の黒い長袖のTシャツと洗い晒しのデニム、それにバスタオルを脱衣籠の中に重ねて。
洗濯はもう少しで終わりそう。男女どちら用共制服の色は淡いからしみにならないか気がかりだけどそれは洗い終わってから。健気に中身の教科書類をほぼ乾燥した状態で守り通した鞄はエアコンの風が最大限当たる場所に置いた。靴は少しでもましになればと拭いた後玄関の壁に立てかけてある。
一通りの様子を見てからリビングに戻るとテレビをつけた。ローカルなニュースではやっぱりこの雨の被害状況がトップ扱いで、冠水した駅や河川の水門に迫る水位とかの映像が流れ続けていた。それも終わると現在の雨雲の状態と今後の動きの予測。案の定雨雲は津川付近の上空もしっかり覆っている。
「雨の予想はどんな感じ?」
湯気の匂いと一緒にバスタオルを頭から被ったイザンがリビングに入ってきた。どうやら渡した自分の服は上も下も自分が兄の服を着た時程には大きすぎる感じではなさそうでよかった。
「こんなのだって。前線が通過するまであと二時間位?水が退くのはもう少しかかるのかな」
イザンはテレビの雨雲レーダーに視線をやると頷いた。
「そんなとこだろうね。ボク一人でだったら水溜りだろうと何だろうと無視して行けるし適当なところでおいとまするから」
「でも何か暖かいもの位飲んでいってね?帰るの遅くなっちゃうのにちゃんとしたご飯が用意できなくてごめんなさいだけど」
「こんな日にそんなもの期待するほどボクは図々しくないってば」
イザンは何気に甘いものが好きな人だ。キッチンに立つと冷蔵庫からココアを出してカップボードを覗く。確か冬から春先、彼に温かい飲み物を出す時の為にお客様のカップの中で彼専用のを決めておいた筈だけど。
「どれだったっけ」
何気ない独り言のつもりだった。
「ボクのカップのこと?」
ふいと隣に立ったイザンがカップボードの中に手を差し入れようとして自分の手にぶつかり、慌てて退けると手前のカップをひっかけた。…カップが床に砕ける音が遅れて響く。
「…あ!」
困るほど粉々にはならなかったけど彼も自分も素足だ。急いでしゃがみこみ一番大きな破片を拾い上げると横からイザンが手を掴んできた。
「ボクがやる。晶乃の指切れてるから洗えば」
「え」
見ると人差し指と親指に赤い筋。立ち上がってシンクで指を洗い、リビングの薬箱から絆創膏を出してキッチンに戻るとほんの何分かのことなのに床はきれいになっていた。
「片付けてくれてありがとう、今度こそ淹れるから。イザンくんのって青いラインが入ってるカップだよね」
イザンは集めていた破片をシンクに置いた。そしてこちらの手を引くと有無も言わさない感じでリビングに移動し、ここ、とソファに座るように促す。
「晶乃、さっきからどうしたっていうの?今さっきどころじゃなくてここのところおかしくない?」
横に座ったイザンは両手を取るとぎゅっとこちらを正視してくる。逃げないでね?って。
「…」
「一度ちゃんと話さないとって思ってた。それにボクにはわかるんだよ、晶乃と話してて切り上げるのが早いとか視線を逸らすのが早いとかそういう微妙なタイミング。晶乃が危なっかしいのとボクによそよそしいのと連動してるみたいだしなのにずぶ濡れだから家に上がって拭いてけとかわけわかんない。そういうのって地味に堪えるんだよね」
…何度か失敗はあったかもしれないけど基本的には普通にイザンと接することができてると思ってた。でも彼はあの瞬間もあの瞬間もお見通しだったみたい。
だから、どうして?
だからちょっと声かけてみようかって話してたんだよ
どうかした?
どうしたっていうの?
…そう、夏からこちら人から気を遣ってもらってばっかり。人に気持ちを向けてもらうのを待ってるだけじゃいけないのは自分の中ではとても痛い教訓だったのに、いつの間にかまたそれに甘えてる。
…深い呼吸を一回。ちゃんとイザンの顔を見て。
「…あの、イザンくん最近出張が多いでしょ?」
「それが?」
イザンは首を傾げた。
「こんな風に出張が多いとそのうち本格的に海外に赴任になるのかもって。私が卒業まで一緒にいられないんだとしたら寂しいなって…そんなこと考えてたら何だか調子が狂って色々上手くいかなくなっちゃって」
他にも沢山の感情がまとわりついてるけどでもまず先に伝えないといけないのはこのこと。
コマ送りみたいな感じで硬くなってたイザンの表情がみるみる緩んだ。
「…なんだ、気にしてくれてた?」
「とっても」
「今のボクの仕事は流動的だからこうだって絶対の断言はできないけど」
絆創膏を巻いた指先を避けて自分の手を握るイザンの手に力が篭る。
「晶乃に執着してなかったらボクはこんなに何度も日本と海外を往復してないよ。それだけは言える」
「えっと、遠距離恋愛なんて柄じゃないって前に」
「そうだよ柄にもないことわざわざやってるんだから認めてよね?」
イザンの顔がかっと赤くなって誤魔化すように頬に彼の唇が当たった。
「…そういうことならよかった」
そして、笑う。ほっとした様子で。
胸がしんと熱くなった。ずっと自分は彼に自分の心や感情を委ねたりぶつけたりも大丈夫っていうその拠り所を求めてた気がするけど多分これはそれ。そして欲しがるだけじゃわがままなのもわかってる。それなら、自分ももう少し素直に示さないといけない。それで何かがひっくり返ってしまってあの言葉の通りになるとしても。
「…あともう少し話したいことあるんだけどいい?」
イザンは頷いた。
話すのには時期を選ばないとと思って長い間正面からは踏み込まなかった話。今日がふさわしいのか上手く伝えられるのかもわからないけど。イザンが帰ってきた夜に考えて今に繋がること。
「私ね、イザンくんが津川に戻ってきてくれてから色々考えてた。私は、私が今まで当然だって思ってきたことを基準にしてイザンくんのことを非難なんて絶対にできないんだって。
だからわかりたかった。イザンくんがどんなところでどういう気持ちで過ごしてきたのか知りたかった。でもこういうことってわかったふりなんて失礼だしきっと近道ってないよね。だから今自分ができるだけのことをしようと思って」
そのとつとつと語る様子で本のしおりを挟んだ部分を開くように思い出せるのは夏の晶乃。そうか多分晶乃が言ってるのはあの話の根の部分。何かが晶乃の心を塞いでるのはうっすらとわかってたけどそれに自分がこんな形で、それも負の感情とは反対のもので繋がるだなんてまさかあの時は。
「それにもしこれから先もイザンくんと仲良くいられるならお兄ちゃんみたいにイザンくんがどこか他の国に赴任することになってもただ待ってるだけじゃなくて自分からも何か行動は起こせるようにしておきたいなって。でも今の私じゃいつまで経っても何をしても間に合わないままおしまいになっちゃうような気がしてた」
三年生になってから少し無理目に成績が伸びたのもそういう気持ちたちの副産物。それらはもしかしたらタイムリミットが来るとかそもそも彼が望まないことだとかでどこにも繋がり得ず行き止ってるかもしれないことだったからいつでも不安と一体で。それでも伝え聞いたイザンがしたとされる行いや見えない未来への恐れで、彼が自分を守ると言ってくれた時や、夜に窓の向こうに現れた彼を迎えた時や、彼に触れたことで産まれたモザイクみたいな色とりどりの気持ちを否定したくなかったからひっそりじたばたし続けて。それが人の言葉で簡単に揺らぐのもとてもかっこ悪いことだけど。
「…私はイザンくんに近づきたかったの」
例えば、晶乃が総一郎に向けた気持ち。あるいは正剛が宗親に向けた気持ち。そういうこいつはこいつにしか向けないっていう思慕みたいなものが欲しいって思ってた。でもきっと自分の示せる誠実とかそういうもののありようは他人とは違うから、手に入れることは決して叶わないのだと。物欲しそうに指をくわえて眺めてるような惨めな真似をする位なら逃げてしまってもよかったのにそれでも未練がましく日本に残ることを選んだのは口に出した通り執着してたからだ―津川にある諸々のことに、何より晶乃に。
「…何それ、重」
「うん…、そうだよね、重たいよね。ごめんね変なこと言って」
泣きそうになるのは堪えた。言いたいことは言えたしこれでいい。イザンからは充分貰った。
形は違うけどこれがきっとそう。これは自分だけに向けられる晶乃の気持ち。そうだ目の前のこの人のことを愛おしくて愛したくて焦がれてた、ずっと。
「…でも、ボクが欲しかったのはそういうのだから」
いつの間にか俯いてたみたいでその言葉に顔を上げると真ん前にイザンの顔がある。…そして、自分の背に彼の腕が回った。優しく、力強く。
イザンより先にシャワーは使わせてもらっていたし部屋の中は寒くないようにしていたのにいつの間に冷えていたようで、服越しでも暖かく感じる位のイザンの体温と彼の言葉が以前から胸の中に固くつかえていたものを溶かしてしまうのを感じた。
イザンの体が離れた。こちらを見るとちょっと大げさじゃないかって感じでうろたえる。
「晶乃?」
泣くつもりなんてなかったのに。急いで目元をこするとイザンに真剣な顔で覗き込まれた。
「晶乃が泣きたくなるようなこと言った?ボク」
「…ううん、全然。悲しくて泣いてるんじゃないから大丈夫」
笑おうと思ったけどそんな顔で見られたら止まらない。何が大丈夫なのかはわからないけどとにかくそう言った。
「泣かないでよ、晶乃がそんなだとボクもきついし」
「…うん」
「…泣かないで」
再度引き寄せられて、イザンの唇が目尻に押し当てられた。そして瞼に、頬に。唇に。いつもより長くて、篭ってる熱量が増えてるキス。
「…落ち着いた?」
抱きしめられたまま聞かれたことにはただ頷き返した。前からイザンと交わすキスもハグも嫌いじゃなかった。彼は何でも頃合とか距離を計るのが上手だったから大概の場合は丁度いい位の接触で終わっていた。でも唇でも体でも離れてしまうその瞬間が変に物寂しくて、その心地にだけはいつまでも慣れなかった。だからって自分からもう少しとねだることも気恥ずかしくてできなかったけど。
「ねえ?」
顔が退いても彼の腕はまだ腰に回ったままだ。空いた方の手が湿気ている髪と頬を撫でた。
「何?」
ほんの少しの間言い淀むような気配があって、それでもイザンははこちらを真っ直ぐ見ると言った。
「…今は晶乃のこと離したくない。何時間でもいいから晶乃の時間をボクに頂戴」
時間をあげたらどうなるのかはわかった。互いの間を隔ててたものが薄くなったお陰で離れたくない離したくないっていう気持ちが共振したのかもしれない。そして普段からとても用心深く避けるみたいに、冗談っぽく紛らすようにして、あまりあからさまな感情を表してこなかった彼の顔に浮かんでる切望のようなものを見て、自分の内で何かが湧きあがってくる。それに応えたいと思った。そうすることを選ぼうと。
間が空いたのをごめんなさいの返事に取ったのかイザンは気まずそうにソファから立ち上がりかけた。
「…今の忘れて」
首を振るとイザンの手を取った。
「イザンくん、違うの。…私の部屋に行こう?ここじゃなくて」
きっとそうすることを選んでも後悔はしないから。
…
あの部屋やこの部屋を巡ってイザンは自分が気付かなかった彼の居た痕跡を丁寧に消していった。砕けたカップ。彼の使ったバスタオル。あちこちの床に残る水滴。それらを片付けてしまうと最後に彼の荷物を纏めて玄関に立ち、まだ生乾きなんて段階にもなってない靴に足を突っ込んだ。
「…本当は晶乃を残していきたくなんかないんだけど」
最後の仕上げのようにほつれていた髪を彼の指が整えると軽くキスしてくれる。
「今総一郎と鉢合わせたら殴りあいになるだろうしね」
「あの、もしそんなことになったらお兄ちゃんはきっと喧嘩は弱いと思うから手加減してあげて?」
今日のことは自分が選んだことで彼も望んだことだけどそれはあまり考えたくない。だって。
イザンは面白くなさそうに言った。
「ふーん、この期に及んでまだ総一郎の肩持つ訳」
「だってイザンくんもお兄ちゃんも私の大事な人だから」
彼も兄もどちらも比べられるものじゃない。拗ねたような言葉にはそう答えるのが精一杯だった。でもイザンは了解した、とでもいうように小さく笑う。
「わかってる。じゃあそろそろ行くね。晶乃はちゃんと休んで総一郎に疲れた顔なんて見せないでよ」
「うん…おやすみなさい」
彼はドアを開けた。雨の日特有の冷たくて湿気た空気と彼の声が一緒に玄関に吹き込んできて、閉じる。
「おやすみ。それと今日はありがとう」
何時間かの間に雨足は随分弱くなっていた。この一帯が湖みたいに水没するんじゃないかという錯覚を感じそうになった冠水は水位が下る気配を見せていて、雨に閉じ込められて沈黙してた方々の人も車もそのうち動き出すだろう。そいつらの気配がないうちに学園の方に急いだ方がいい。
付近の地図やセキュリティの配置図は既に記憶しているし一人だけなら雨が振ってても荷物を抱えててもどんな悪路でも行ける。念の為街灯が少ない道を選ぶと水から頭を覗かせている路石やガードパイプを踏み跳んで確実に足を進めてゆく。
「…ふ」
雨粒も風もちょっとお前頭を冷やしてけって感じで顔や全身に吹きかかるのにどうも口元がにやついた。冷静を装うのは得意だし実際そうやってマンションを出てきたけどまだ晶乃と過ごした密な時間の整理が自分の中でできてない。せめて帰りつくまでの間位は手をつけなくてもいいことかもしれない。それに晶乃はこう言った。
『イザンくんもお兄ちゃんも』
って。
こういう時間に学園に戻るのはいつも何かの案件終了後で暗い道を一人戻りながら自分のどこかがささくれている気分の時が多いけど今日は違う。自分の声も顔も隠してくれる雨の音や闇は今夜は自分の味方だった。