…そこまでが夏にあったこと。保養所に行った以降もイザンや皆との行き来はぽつぽつながらあって、兄も次の仕事の目処が徐々につき始めてからはノートパソコンと四六時中にらめっこしてるのも多くはなくなりそれに伴って一緒に外に出る機会も増えて、勉強と息抜きとのペース配分に四苦八苦しながら三年生の夏は暮れていった。
イザンからメールが届いたのは夏休みの残りも二週間を切ってからだった。
ちょっと出張してくるから、という簡潔な内容。でもどこへとか、いつまでとか、詳細は書いてなくて二学期にまたねという再会を約束する文句があっただけだ。
「…悪いけど俺もよくわかんないんだよな」
と言ったのは正剛だ。
新学期も始まって校舎や寮付近のそこここで見かける二年生達の中にイザンの姿はなく、自分から送ったメールにも返信がなく、あれっと思って正剛に連絡を取った。その話は昼時にという段取りになって屋上で待ち合わせると頭上に広がっているのはそろそろ秋を告げるうろこ雲だ。日差しはまだまだ強いので日陰を探して正剛とお昼ご飯を広げた。
「わからない?」
サンドイッチの包みをはがすと正剛は頷いた。
「イザンの奴急に出てっちゃったから。俺もお盆以降は流石に家に帰ってたんだけど寮に戻ったらあいついなかったしこっちからのメールも返事ないし。で何となく保安部の人に聞いてみたらこの話ってエリオットさんから直の話らしくて」
「…直って?」
胸に何かひやっとしたものが降りてきたような気がするけどそれを紙パックのジュースと一緒に飲み下す。自分も今日は購買でパンを買ってたのにどうも食欲が湧かない。座った膝の上のベーグルは袋から出されないままで風に晒されて音を立てている。
正剛はサンドイッチを一口齧って咀嚼すると空を見上げた。
「んーだから階級的には俺って一番のヒラだろ?だからヒラ卒業した人とかその上の人辺りから貰ってるのが普段の仕事だけどエリオットさんって保安部内階級ピラミッドでは一番上の人なわけ。そういう人が直接お前がやれってイザンに下ろした仕事。つまり俺みたいなのには見えない聞こえないわからないの三点セットものの仕事」
「…そうなの」
なんとなく思い出すのは保養所でのあの朝のこと。あのこととこのこととが繋がるとは限らないけどエリオットの車の横で頷いていたイザンの様子とその後。推測を元にして気を揉んでも仕方がないとわかってるつもりなのに推測が不安と手を取るとでたらめな方向に行っちゃいそう。
「俺はともかく朝倉に位ちゃんとメール返したらいいのにな。でもこういう言葉もあるし?」
「?」
「便りがないのは元気な証拠」
「そうだよね」
正剛の笑顔に押されて袋を開ける。正剛はとっととサンドイッチを口に放り込むとコロネを頭からか尻尾からか迷ってひねくり回した。
「そういえば聞いてもいい?」
「んー?」
「正剛くんがまだ保安部に所属してるって宗親くんたちに言ってないってどうして?」
兄に尋ねた時は兄はそれは正剛くんの決めたことだからねと言っていたからちょっとひっかかっていた。バイト位の経験しかない自分からするといきさつは色々あっても高校生で正社員でしかも部署のかけもちというのはなかなかできることではないような気がしたけど。
正剛は尻尾からに決めたみたいで返事までにちょっと時間がかかった。なので自分もベーグルを齧ってみると何とか食べられる。
「俺保安部でもシステム部でも半端な人間なのはわかってるしそんなのでイヅナを作った兄貴達に箱実の社員になったよなんて言いたくない。だからもうちょっと実力とかそういうのをつけて胸張れるようになってからにしようって思って。この仕事はお前がいないと駄目だーって言われる位になってから。そっちのが格好いいだろ」
正剛の言葉と表情に迷いはなくて、こうだ、と決めた人間だけが持つんだろう力強さがあった。
「それでもしかしての宗親くんのピンチの時にはばーんと現れて助けてあげる?」
「そうそうそんな感じで」
一転して嬉しそうにしながら正剛がコロネを片付ける頃には自分のベーグルも胃に収まった。まだもう一つ残ってるけどこっちは家に持って帰ろう。
正剛は膝の上のパンくずを払うと立ち上がった。正剛がドアのロックを外してくれて屋上に立ち入ったんだし自分も戻らないといけない。袋を持って立ち上がる。
「一応仕事なんだしそのうち戻ってくると思うぜ?また何かわかったら言うから」
「うんお願い。私もごめんね変なこと聞いてお昼なのに来てもらったりして」
「いいって。俺だって気になってんだから。イザンがいないと部屋で喋る相手がいなくて静かでつまんないし仕事もこまめに見てもらえないもんな」
結局「待ち」しかないということになる。それでもぼんやりでも事情がわかっただけでも収穫。正剛に続いて階下に続くドアに向かって、先を歩く正剛の足が急に止まった。ドアは開いていた。正剛が開けたんじゃなく階下から上がって来た人間と鉢合わせしたとわかって一瞬どきっとして…でも正剛は素っ頓狂な声を上げた。
「うお、噂をすれば影!」
「何その言い草。ボクだって今日一日位ぐうたらしてたかったのに学生は学生らしくしろってうるさい筋がうるさいから仕方なく昼から出て来たんだから。それで来てみたら晶乃もお前もいないしひょっとしてって思ったらやっぱり」
…その掛け合いを正剛の後ろから覗くと、笑いかけられる。にこっと。
「だって朝倉のところにも俺にもメール一つ来ないし心配位するだろ?だから今後の検討してたんだって」
「メールが来てない?」
正剛がそうだと頷くとイザンは自分の携帯を取り出した。何度かキーを弄ってそれから前髪をくしゃくしゃとかきまわす。
「ああもう電波状況が国によって違い過ぎ!いくら何でも一つ位届いてるかと思ったのに!ボクはちゃんと送ったって」
携帯を突きつけられるとディスプレイに視線を走らせて、納得したのか正剛はイザンの肩を軽く叩いた。
「俺はちゃんとフォローしといたからな、後で何か奢れよー?」
振り返りもしないで正剛は階段をぱたぱたと小走りに下っていった。
「…まあそういう事情なんだけど。元気してた?」
ばつの悪そうな表情でイザンが尋ねてくる。でもまた会えたのは嬉しいことだ。
だから自分もこう答えてみよう。笑って。
「うん、お帰りなさい」