多分別荘地から海の方へ徒歩で出る為だけに作られた舗装されていない車も入ってこられない砂利の小道は海岸沿いの歩道に繋がっていて抜けるとあっけない位すぐに海岸に出られる。二人でその道を手を繋いで海まで歩いていった。昼間は色々な人が集っていたし人の足で掘り起こされたりしてぼこぼこしていた砂浜は夜を経て寄せた潮と風とですっかり綺麗に均されてしまっていて、今日はあなたがたが初めてのお客様なんですよと言われているようだった。実際この季節のこういう場所なら先に来た誰かの残していった足跡の一つもありそうなのに見当たらないまっさら状態。
「私たちが一番乗りなのかな」
歩道から海岸はコンクリートの階段で繋がれて一段低くなっていて、踏み出すのも勿体無いような気がして言うとイザンは笑った。人の良くない笑い方だ。
「かもね。こういうものを見た時には」
「時には?」
「わざと足跡を沢山つけて後から自分が一番乗りだと思って来た奴を悔しがらせる!」
「あーずるーい!」
小走りに駆け出したイザンの後を追って追っかけっこになった。男の子が、ましてやイザンが本気を出したら追いつく筈はないんだけどイザンはそこらをわかっていてスピードに緩急をつけてからかうようにするから楽しいのと悔しいのとでほんの少し駆け回っただけで白い砂浜は足跡だらけになった。
「…ごめんなさい、ちょっと休憩」
逃げてゆくイザンの背中に声をかけたのは足元に違和感を感じたからだった。片足立ちにしてサンダルを脱ぐと案の定砂がぎっしりしていて(よくよく見るとイザンは軽い服でも足元はちゃんとスニーカーだ)。
「あっちに座ってやったら?」
サンダルをはたいて砂を出しているとイザンが戻ってきて階段を指し示した。歩いてきた歩道すぐの階段じゃなくてもう一つの離れたところにある階段。いつの間にか結構距離を稼いでいたからそちらの方が近い。
言われるままに階段に行って座ると砂を払った。イザンも隣に来て座り、揃って海の方に視線を投げたままで肩と肩が触れた。水平線近い群青色の雲海の向こうからは朝日が顔を出しかけて鏡面のような海に反射し光を惜しみなくふりまいている。
…きれいだな、と思う。イザンも同じように思ってくれてるといいんだけど。いつの間にか彼の手は自分の手にまた重なっていた。
「昨日はあまり話せなかったから」
「そうだね。イザンくんは出遅れたし私は早寝だったし?」
正剛とイザンと二人して海岸に現れた時のことを思い出して笑うとイザンは口を尖らせた。
「その苦情なら正剛に申し立ててよね。ボクはちゃんと一昨日一杯で仕事が片付くように配分してたのに」
「うん、忙しくなっちゃったのに来てくれてありがとう。この旅行ってイザンくんがお兄ちゃんに言ったからなんだよね?お兄ちゃん言ってたの。イザンに叱られたから、って」
「ぐ」
兄の周囲でそういうことを言う人がイザン以外に思い浮かばなかったからあてずっぽうだったけどどうやらビンゴ。ちょっと面白くなってくる。
「…別に、上の人間が休みも取らないでいると奴隷根性の部下はいつまでも休めないって話をしただけ」
「私ものんびりできたしイザンくんが楽しそうにしてるの見てると何だかいいなーって」
そう、二人っきりで楽しくしてるのもいいけどイザンが皆とあれこれ賑々しくやってるのを見るのもよかった。一対一では見えないもの、自分では絶対にイザンからは引き出せないものもあるし。女の子同士でしか通じない内緒の雰囲気みたいなのがあるのと同じで男の子には男の子の世界がある。彼がそういうところに素に近い感じで混ざってるのを見られるのは何だか嬉しい。
「楽しそう?ボクが?」
心外なんだけど、とでも言いたそうなその顔をじっと見つめるとまた勝ったみたいだ。頬が少し染まった。
「まあ遊ぶことではあいつら裏表ないし気楽かもね。…それよりも晶乃もこんな早起きしてきてまさか昨夜は眠れなかったとかそんなの?」
イザンにしては下手な切り返しだなと思ったけどでもあまりつっつくのもかわいそうなので乗ってあげることにする。
「そうじゃないの逆。昨日はよく眠れたからかえって早く目が覚めちゃったみたい。寝て起きたらこんなだからもう一度寝る気にもならなかったし」
カーディガンの片袖を抜いて肩のワンピースのストラップを少しずらして。日焼け止めをまんべんなく塗った体の正面側半分はあまりむごいことにはなってないけど背中側半分は塗りが甘かったのか真っ赤だった。背中側のストラップ部分の日焼けは赤い地に白い線を引いたようなコントラストで、そこにイザンの指がおそるおそるといった感じで触れた。
「…ちょっとこれ完璧に火傷の手前」
「あはは…うっかりでした。今日から朝倉ひらめって呼んでね。かれいでもいいけど」
「そんな気楽なこと言ってる場合?今日はシャツでも何でも頭からかぶって大人しくしてないと」
「…あ、イザンくんの手って冷たくって気持ちいいかも」
「だから、ボクって体温高いんだし」
そこまで言い合って、ふっとイザンが固まった。
「…どうかしたの?」
急に何かが自分にぶつかってきた。…ぶつかったのではなくてイザンが腕を伸ばして彼の胸に抱き寄せられたんだとわかるのに数秒かかった。
「だめ」
彼の声が囁く。
「…え?」
「そんなのボク以外に見せたら駄目だから」
身動きできないので目だけを動かすと自分の日焼けといい勝負ができる位赤いイザンの顔。背中側に回っている手がカーディガンの上から肩甲骨と肩甲骨の真ん中下辺りをとんとんと叩いた。…背中?背中に何かある?何もないけど…ない?
…あ。
今度はこちらの顔が赤くなった筈。寝た時の格好のままで出てきてたから。イザンと体が密着してるのでもうわざわざ隠さずに済んだ。
「…ボクしかいないから良かったけどそんなの見せびらかしてたら男なんて皆狼なんだから頭から美味しく頂かれちゃうよ!?あいつらだって隙あらばって狙ってるのに」
早口で言うとイザンはじと目で眉をひそめた。…こういう時はどうすればいいのか全然わからなかった。ごめんなさいか教えてくれてありがとうかそれともきゃーと叫んで逃げるか。イザンの腕はしっかり自分の体を捕まえていたからどうやら逃げるのは不可能そうだけど今彼が言ったのはどこの誰までを含むんだろう。
「…狼ってイザンくんも?」
「ボクだって勿論。でもボクは礼義正しく時と場所も選ぶけど」
あっけなく体は離れて、イザンはカーディガンの前を夏服には大げさな位に合わせた。こちらの手を取ると合わせた部分を握らせて。
「晶乃ってば無防備過ぎ!本っ当危なっかしいったら。ひらめじゃなくてうかつ。朝倉うかつ」
「…その通りです」
返す言葉もないのと恥ずかしいのとで俯くと、間をおいて笑ったような気配がした。
「…でもこんなので充分なのかもね」
耳元に軽く音を立てて彼の唇が当たる。不意打ちに思わず体を竦めるとイザンは立ち上がって手を差し出してきた。
「戻ろうか?二人揃っていないって勘付かれたら面倒な事になりそうだし」
「え、うん」
そしてまた手を繋いだままで保養所への道を辿る。キスもハグも何度もしたことあるのに今朝のは何だかイザンの気配が体にいつまでも残ってるみたいで変な感じ。その感覚につきまとわれて先を歩く彼に聞けないことはやっぱり聞けないまま保養所に着いた。