一回きりのノックの後、返事も待たずにイザンはするりと猫のように部屋に入ってきた。そしてドア周囲を確認してから音もなく閉める。
「他の皆は」
小さなテーブルに酒瓶やグラスやナッツやを広げていたエリオットはイザンの方も振り向かずに尋ねた。それにも構わずイザンは部屋に二つあるうちテーブルに間近い方のベッドの上に腰を下ろすとそのまま後ろに勢いよくひっくり返った。ベッドが弾む。
「今頃全員ノンレム睡眠にご招待だよ。全く参るよね、あれだけ体動かして大飯食らってまだトランプして花札してボードゲームして長々遊ぶ体力あるってバケモノだ」
わざとらしい溜息が漏れた。
「お前が言うか」
「でも参るって言う割には最後まで付き合ってたんだよね?」
エリオットの向かいの椅子に座った総一郎はグラスを手に言った。エリオットは本当に素で酒が入っているのか判らない位の様子だけど総一郎の顔はほんのり赤い。
「途中で抜けるわけにもいかないしちゃんと最後まで適当にお付き合いしたってば。エルと総一郎はとっとと部屋に引っ込んで暢気してるのにさ」
起き上がるとイザンは腕を伸ばして酒瓶を手に取ろうとした。その手をエリオットの手が音を立てて叩く。
「未成年」
「ケチ!」
頬を膨らますとイザンはテーブルの上のくるみを取り上げた。それを食べようとするでなく掌の上で低く投げ上げてはキャッチして。
「…まあエルの言う通り今日一番のバケモノはほぼ完徹した後全メニューこなしてこんなところに顔出してるボクだけど。で、何か用?まさか総一郎とのほほんと酒飲む為だけに来たんじゃないよね」
「気がついたか」
「気づかないほど鈍かったらあなたの部下なんてやってないよ。どうせまたラボとか幹部用マンションなんかじゃできない系のやらしい話」
くるみを掌にキャッチすると今度はそのまま握り締めて、もう一度掌を開くと胡桃はきれいに割れていた。その中身を指先でつまんで取り出す。
エリオットは酒瓶ではなくその横の半分方残っているトニックウォーターのペットボトルを取るとイザンに放った。渋い顔をしてイザンは受け取り、
「…って、総一郎に聞かせていいわけ?」
エリオットの向かいを見ると総一郎はグラスを持ったまま目を閉じていた。エリオットは立ち上がるとグラスを取り上げてテーブルに置き、総一郎の脇から背中に自分の腕を回すとそこから最低限の要領の良い動きで総一郎の体をベッドの上に移した。
「寝たんだ。いつもいつも思ってるけど総一郎ってよくわかんない」
邪魔にならないようにどいていたイザンが肩をすくめてわかんない、のところに実感を込めて呟くと、エリオットは雑に総一郎の上に布団をかけて軽く吐息をついた。
「学生時代からこうだ。総一郎はアルコールを摂ると長い時間起きていられない。今はこれで好都合だがあの頃は色々苦労した」
「取り扱いには慣れてます、って?そういえばそういう腐れ縁のお陰でエルは酷い目に遭ったんだっけ」
皮肉に笑うとイザンは空いた椅子に腰掛けた。エリオットも椅子に戻る。
「…本当にボクもエルも所詮王様に飼われてるハンプティダンプティなのに普通の人間ですよって顔して普通の人間に混ざって仲のいいフリなんかして。こんな風にこそこそしてるのってあいつらからしたらまた騙してるってことになるんだろうね」
エリオットはすぐには答えなかった。テーブルの上からくるみを二つ取り上げると掌の上で転がして握り、かちんという音と共にくるみは割れた。握力が必要な作業だったけど身体をずたずたにされた過去からここまでの回復をしたのは箱実という企業が彼に持てる技術と財とを注いだ結果でもある。
「ハンプティダンプティにも出される餌が不味ければ文句を言う権利があるしあてがわれた部屋が気に入らなければ壁を打ち抜いたり塗り替えたり花を飾る権利もある。私ならそうする」
言うと、エリオットは酒瓶を傾けて中身をグラスに注いだ。そのまま口に運ぼうとするとイザンは体を乗り出し持っていたペットボトルの中身をグラスに勝手に注ぎ足してすっかり薄くなり、睨まれるとしれっとして言った。
「後で強い酒の勢いで言ったことだから覚えてないなんて言われても困るから。何するつもり?」
「一枚噛むか?」
「最近子守り仕事ばっかりで暇してたしいいよ聞いてあげても。…また晶乃を泣かすようなことにならなければ」
自分の顔を隠すようにイザンはそっぽを向いた。それでも聞く意志がない訳じゃないと示すように椅子からは動かない。
「柄にもないことを言ってどうした?」
「ハンプティダンプティにだって花を飾る権利はあるんでしょ。あいつが泣く原因がボクなのは避けたいだけ。塩水ばっかり浴びせてたら花も枯れるし」
イザンの手が着ている半袖Tシャツの左胸あたりを掴み、くしゃくしゃと皺が寄った。
「…決めるのはお前だ」
グラスの中身を空にしてしまうとエリオットはまた酒瓶を傾けた。今度は妨害は入らなかった。
すっかり忘れてたけど長い時間体を水に浸けてるのは結構疲れることで、だから昨晩も男の子たちがわいわいやってるところを早引けさせてもらった。ベッドに横になりうとうとしているとずっと階下ではゲームで遊んでる皆の歓声が響いていて性別が違うってこういうことなのかなと思いながら目の前がいつの間にか暗くなり、次に薄目を開けた時には部屋の中はほのかに明るかった。一晩中の冷房は嫌だし二階だしという判断で網戸にしてちょっとだけ開けておいた窓からは相変わらず潮気を含む風が吹き込んできていて、カーテンが海草のようにゆるゆるとゆらめいている。
「…んー」
起き上がり、思い切り伸びをすると風が丁度いい具合に全身を包み込んだ。夜更かしし過ぎて体がまだ眠いよとぐずっている時のようなけだるさはなくてすうっと眠気が引いてゆき、同時に自分の体の正面側じゃない首や肩や背中が熱を持った鈍い痛みを含んでいるのに気がついて思わず手で痛む箇所に触れた。寝る前にアフターローションを塗ったのにあまり効果はなかったようでぽかぽかひりひりする。冷水のシャワーでも浴びればいいかもだけど壁の時計を見る限りはまだ皆寝てる時間だろうしうるさくして起こしてしまうのは避けたい。…多分自分一人だけ早く寝たから起きるのも早くなっちゃったんだ。
それでも二度寝する気には全然ならなかったのでベッドから下りた。少しは体感温度も下がるかなと海が覗く東側の窓を全開にし、それから南側の窓の前に行って。
ふっと、遮光のレースカーテンの白くぼやけた向こう側、ベランダのフェンスが透かした庭で動くものが見えて思わず自分の動きを止めた。停めてあるエリオットの車の横。あのシルエットはイザンだ。声は聞こえないけど頷く仕草の様子からすると和気藹々という風でもないからきっと仕事か何かの話。そういえばこんなことって前にもあったような気がする。聞き耳なんて立てないでおくのがいい。
そのまま後じさりして床に直に座ると話はあまり長引かなかったようで程なく短いアイドリングの後にエンジン音は去ってしまい、また小鳥の声や虫の音も混ざる朝の静寂が戻ってきた。
それから時計の秒針が三巡するまで待ち、立ち上がってわざとらしくならない位の控えめな勢いでカーテンを開けるとまだ庭先にはイザンの姿があった。気がついたのか彼もこちらを向いたので、窓を開け放ってベランダに出る。
「おはようイザンくん」
彼の顔色はほんのわずか良くないように見えたけど口を開いたイザンはもういつものイザンだった。
「なんだ、昨日はへばってたみたいだから大寝坊かと思ったら」
「たまには想定外なのもいいでしょ。…帰ったの?エリオットさん」
兄の車の隣の空いた場所を指すとイザンは頷いた。それから声を小さくして。
「…上と下で話してたら響くしこっちに下りて来なよ。健康的に朝の散歩でもどう?」
「あ、うん」
部屋に下がるとふっと自分の服―夏はパジャマ代わりにしてるすとんとしたパイルのワンピース―に気がついてこのまま外に出ていいのか迷ったけどそういえばイザンも半袖のTシャツにハーフパンツという気楽な格好だったので、まあいいかと髪を軽く撫でつけ昨日ここに来るまで着ていたカーディガンを肩にひっかけるとドアを開けた。