なつのこばなし・その2

 海岸で唯一観光客相手の商売をしているお店でパラソルを二つ借り、人影もまばらな砂浜に立てるとそれぞれ持ってきた手荷物を置いてしまってそれで準備は完了した。
 風が少々あるせいで流れる雲で時々翳ったりもするけれど砂浜は日の光を受けてまぶしく白く輝き、内海なので穏やかな海面は時々さざ波を立ててはまたべたっとした凪に戻る。そして海それ自体の青さも目に染みるようだ。
 「…凄いっすね総一郎さん、日本の海なのにこの透明度って」
 目の上に手をかざして宗親は見渡した。
 高柳も頷く。
 「僕もこういう海の色って何だかモニターの向こうとか旅行会社のパンフレットの中だけの話だと思ってました」
 「海の透明度っていうのは汚染だけじゃなくて地理的条件も関係してくるんだよ。こんなところだったら観察できる海の生物も豊富だろうね」
 晶乃に声をかけられてきりのいいところでノートパソコンを閉じて同行してきた総一郎は心なしか嬉しそうに言った。
 「例えばこの海域に多く生息してる筈のヒラムシは独特な生殖形態をしていて基本的には両性具有なんだけど二つの固体が出会った時に武器にするのが」
 「…総一郎さん、今日はそういう話はなしでお願いします」
 「お願いします」
 水着姿の宗親と高柳は両脇から総一郎の腕を取るとパラソルの影から連れ出した。水着なんて随分長いこと着てなかったよと言いながらもそこら辺はわきまえていて総一郎もちゃんと水着着用だ。
 一足先に波打ち際で足を水につけていた晶乃が三人に向かって手を振ってきた。晶乃はシンプルなワンピースにパレオという組み合わせだったけど泳ぐのにはちょっと邪魔だとパレオは丸めてパラソル下に置いてある。
 「ねえねえ、今魚みたいなのがいた!こんな浅いところなのに!」
 「うっそマジ!?」
 「ゴーグルゴーグル!持ってきてあるから!」
 高柳が腕に引っかけていたゴーグルを晶乃に向かって放り、そして宗親と二人で総一郎の横を駆け足ですり抜けて行き総一郎は転ばないようにねと二人に声をかけた。
 晶乃に合流して三人で交代交代でゴーグルをつけて鼻をつまんだり耳を塞いだりして思い切り良く沈み、わずかな時間の後に浮上してきてその度に歓声が上がる。
 「すっげ、超魚!浦島太郎ってこんなの見たんだぜきっと」
 「かなり接近してくるよね?人慣れしてるのかな」
 「お兄ちゃんって魚の種類にも詳しかった?これって何て魚なのー?」
 「待っててそっちに行くから」
 水中に沈んでは浮き上がり、徐々に浅瀬から離れてゆく三人の後を総一郎は追った。

 結局「何かの稚魚」ということ位しかわからなかったけど小さな魚の群れを目にしてちょっとした水族館の餌付けショー気分ですっかりテンションは上がった。
 遊泳区域を区切るブイまで泳ごうぜ、競争な!となって、最初は晶乃も混ざっていたけどそもそも男の子の基礎体力に敵うものではなく、宗親と高柳が盛り上がっているのをよそに兄妹で海にゆったり浮かぶことになった。
 「小学校以来の海はどう?」
 総一郎はしぶきを立ててブイに向かって泳いでゆく二人を見ながら妹に尋ねた。宗親はフォームも何も結構適当なのに馬力のせいかそれでも早い。対して高柳は習ったフォームの基礎を固く守ってそのまま崩してないんだろうという感じ。…二人ともブイにほぼ同着。
 「うん、こうしてるとなんだか自分のことお洗濯してるみたいでとっても気持ちいい。雲のないところの空と海が一続きになってるみたいで空に浮かんでるような気分」
 仰向けで器用に浮きながら空を指差すと晶乃は言った。大きく手足を動かしているのではない けど波で自然に流されてしまうのを兄の手が妹の手を取って止める。
 「そうかよかった。来た甲斐もあったかな」
 「そういえば車乗ってた時私のこと聞かれたけどお兄ちゃんは留学してた頃は海に行ったりしなかった?お友達とかと」
 兄は困ったように笑った。
 「あっちだと大学生は日本の受験生みたいな勉強が在学中はずっと続くからね。国内出身の学生はそれでもオンとオフをきっちり分けて休みのシーズンははじけて遊ぶんだけど留学生の僕なんて言葉のハンデもあったしそんな優雅にしてられなかった」
 「そうなの?折角アメリカに行ってたのに残念」
 波の動きで体が沖の方に持っていかれてしまうせいで繋いでいた手が解けそうになって、晶乃は兄の手を取り直そうとしてわずか届かず足を水面から水中へ下ろして立ち上がろうとし体がそのまま後ろのめりになり、
 「きゃ!」
 総一郎の目の前で晶乃は唐突に沈んだ。何があったのか咄嗟に察して兄は水中に両腕を差し伸べそのままぐいと妹を引き上げる。
 「ごめん言い忘れてた。ここって結構深くて…大丈夫?」
 「…水飲んだー」
 頭の先まで水に浸かった晶乃は気管まで吸い込んだだろう海水を吐き出そうと咳き込んだ。妹の額に張り付いた前髪を兄の指が払い、大きく咳き込んだ拍子に妹の額が兄の胸にぶつかった。…妹の体を支えていた腕に一瞬だけ力がこもって。
 「…こういうこっちでしかないこともあるし残念とも思わないんだけど」
 「え、今なんて?耳にも水入っちゃったのかなよく聞こえない」
 軽く耳を叩きながら晶乃が尋ねると総一郎の唇が動いた。その動きに兄の声でない大声が重なる。
 「…ひどいぜ兄貴!起こしてくれればよかったのに!」
 「出遅れたけど来ましたよ先輩ー!沢山遊びましょう!」
 兄妹がそちらを見やると砂浜に立っていたのは水着姿の正剛とイザンだ。何往復めかでブイの辺りにいた宗親と高柳も気がつくと腕を振り返す。
 「ちゃんと携帯アラームにしといてやっただろー?」
 「だからって最大音量ってひっでーの!心臓止まるかと思ったじゃん!」
 正剛が肩に垂らしていたバスタオルをぽいと投げ捨て、それをイザンが拾い上げると目ざとく他の皆の荷物が置いてあるパラソルを見つけてその下に自分の羽織っていたパーカーと一緒に置いて、ともかく二人も元気よく夏の海になだれ込んだのだった。

 正剛とイザンが宗親と高柳の二人に加わり人数が倍になって、しばらく何かのうさでも晴らすように学年対抗競泳大会という感じでざくざく泳ぎ回っていたのだけれどそれを相変わらずまったり眺めるモードの兄妹を見咎めたのはイザンだった。
 お兄さんずっと先輩のこと独り占めしててずるいですよーとイザンが冗談ぽく声をかけ、他三人もそうですよーと同調しちゃってでもそろそろ水に浸かってんのもだるいっすねって砂浜に上がると宗親が持ち出してきたのはビーチボールだ。
 つま先で砂浜に適当に線を引くとぐーとぱーで六人を二つに分けて、出来上がったのは総一郎-宗親-正剛と、高柳-晶乃-イザンという変にでこぼこなチームだった。先攻は宗親。
ボールを構えた宗親を前に緊張が走り、そんな中高柳は後ろに控える晶乃とイザンに言った。
 「朝倉、北川、ヒント」
 「何?」
 「はい何ですか」
 「杉田ってこういう時絶対正直に正面に打ってこないから。裏拳とか使って変な方向に飛ばすから。前じゃなくて横を気にしておいた方がいいよ」
 宗親が腕をぶんぶんと振り回す。
 「あー肯ってばネタバレ禁止!ダメ絶対!」
 「朝倉も北川も杉田のビギナーなんだから初心者には優しく!」
 「はは、読まれちゃうって厳しいね宗親くん」
 「高柳もいい加減兄貴には懲りてるんですよ総一郎さん」
 宗親と高柳でしばらくじりじりじりと牽制のし合いがあって、急に宗親は高く投げ上げたボールを正面方向に打った。奇襲は駄目だと判断したか守りに弱いと狙ったらしい晶乃とイザンの間だ。
 それでも晶乃は上手に拾った。ボールを高柳の方に返し、高柳がイザンに向かって放るとイザンの小柄な体が跳ねる。
 「えい!」
 ぼすん、という変な音がしてイザン以外の五人は思わず目を見張った。
 軽ーくイザンの掌に当たって打ち返された筈のボールは砂に半分以上めり込んで埋まっていた。
 「…今の何?よく見えなかったんだけど…」
 高柳が腑に落ちないという感じで口にしたけれど総一郎と正剛と晶乃は何も言わなかった。言えなかった。しかしびしっと指を突きつけてイザン言い放ったのは宗親だ。
 「北川、お前人畜無害な顔してんのは実はブラフか!」
 「えー何のことですか?ボクも伊達にビーチバレー発祥の国出身ってわけじゃないんですよ。鍛えられてますから」
 ボールを掘り出すとイザンはにっこり笑って構えた。
 「…行きますよ宗親先輩とお兄さんと正剛くん!」
 宗親が答える。
 「っしゃ来ーい!」
 打つ!
 打ち返す!
 打つ!
 打ち返す!
 …
 …
 …
 …

 晶乃は砂の上に書いた数字を指で消すと書き換えた。なんかもう完璧なラリーになっちゃって殆どボールをこぼさない。宗親のチームが2失点で高柳のチームも2失点。眺めてるうちに日も傾いてきたようだ。
 「はいどうぞ。水分補給」
 急に冷たいものを頬に当てられたので振り返ると、そこにはペットボトルと氷を入れた袋を下げた総一郎が立っていた。
 「あ、ありがとうお兄ちゃん。何だかいないと思ったら」
 晶乃が受け取り、キャップをねじ開けると兄も袋の中から適当な一本を選んで妹の横に腰を下ろす。
 「パラソルを返しに行くついでに買ってきたんだ。お店の人があの保養所のことも近いからよく知っててね、お店経由で夕飯の出前も頼めるって言うからお願いしてきたよ。ちょっと豪華に」
 ペットボトルを傾けて。それから兄は何かに気がついたように妹と足元の数字を見比べて言った。
 「もう混ざらなくていいの?」
 晶乃は飲みながら笑って首を振る。
 「皆盛り上がってるし私が行ってもきっと遠慮させちゃう。それに見てて退屈しないし面白い」
 視線の先でばしーん!という小気味良い音を立てて正剛がボールを跳ね返す。正剛はちょっと足にきてる風。
 総一郎は頷いた。
 「男の子の遊び方は大胆だからね。やっぱり小曽根崎さんもお誘いした方が良かったかな」
 正剛の打ったボールをイザンが拾い、そこから高柳にパスして宗親へ。宗親が今度は正剛に回すことなく高柳を直撃…したけど高柳も慌てず受ける。
 「あのねお兄ちゃん、すぅ子ちゃんだって予定とかおうちのこととかあるんだし急には無理だよ。月曜の夕方に皆に声かけて木曜にこれだけの人数が集まるって結構すごいことだと思うけど」
 箱実での晶乃の数少ない女の子友達、かつクラスメイトのすぅ子も寮生だけど彼女は素直に帰省していた。すぅ子の両親は離婚していたから夏休みを半分づつパパとママのところで過ごすのと言い残して。兄がここの話を出してきたのは丁度晶乃のところにすぅ子から今日はママとアウトレットのバーゲンに行ってきたの、これ戦利品!なんて楽しそうなメールが画像付で届いた折だった。
 「そうか晶乃と違って僕はそういうところに気が回らなくていけないな」
 皆とは違ってそれ程激しく体を動かしていたわけではないけれどそれでも夏の日差しに晒されて喉が渇いていたのか、総一郎はボトルの中身を案外早く飲み干すと相変わらず砂浜で接戦を繰り広げている四人を見て何だか感慨深いといった感じ―研究対象が珍しい行動を取ってるのを観察しているような―で言った。
 「それにしても元気だね、皆」

 そしてその人は右手に何やらが入ったスーパーの袋、左手に脱いだ夏物の麻ジャケットといういでたちで保養所のホールに現れた。開襟シャツに同じく麻のスラックスという彼にしてはラフな格好だけどそれでも崩した感じがしないのは本人の纏っている雰囲気のせいだろうか。
 「やあエリオット来てくれたの」
 食欲旺盛な高校生がキッチンで五人揃って賑やかにしている中一人早々に食事を終えた総一郎が応対にホールに出ると、エリオットは静かに言った。
 「ここに箱実の社員が揃い踏みしているというので様子を見に来た」
 「だってエリオットも何年か振りで家に帰ったのにすぐ戻ってきちゃったって聞いたからメールしたんだよ。泊まって行くんだよね?」
 「だから、私は様子を見に来ただけで」
 総一郎はエリオットの下げている袋の中を覗きこんだ。
 「あ、ねえこれお酒?」