屋台が途切れ、人の通りがまばらになる辺りで街灯に下がる提灯は本道を逸れて脇道に人を誘っていた。
いつもは細くて狭くてあえて寄り道して行ってみようとは思いもしなかった道だけど提灯に導かれてしばし歩くと坂になり、そこを超えて登りきると不意に開けた視界には見覚えがはっきりとあった。
「…あ、ここって…」
「そうか、ボク達は東側から来たんだ」
声が被った。
小さな社。以前イヅナがあちこち逃げ回っていた頃に立ち寄ったことがある。車道も近い南側からは切り立った石段で登ってくるようになっているけど東側からはかなりゆるやかな傾斜で散歩ついでにでも登ってこられるような按配だ。背の高い針葉樹に囲まれた社の前のほんの狭い平らな場所ぐるりと石段脇には提灯が下がり、祭り仕様というやつなのか白い布がかかった木の長椅子がお気軽におかけくださいとでも言わんばかりにぽつんと置いてある。ただ遊びついでにお参りしようというという人間もいないのか人影は見当たらない。
「晶乃は知ってたの?ここ」
場所の記憶は晶乃と同じではない筈なので尋ねると、晶乃は申し訳なさそうに頷いた。
「前にイルカちゃんと一緒にイヅナに乗せてもらったことがあってその時ここに来たことあるの。あっち側から」
やっぱり南側を指さす。
「ほー、晶乃くんは保安部員が血眼で監視モニターをチェックしてる間にそんなお気楽ドライブしてたんだ?」
そのとばっちりを食ったことがあるのもそんな遠い記憶ではないので皮肉が混じる。
「あの時は色々ごめんね」
しかしそれももう済んでしまった話だ。晶乃が長椅子に腰を下ろしたのでその横に座ると涼しい風が吹き上げてきて頬と髪を撫で、脇に置いた紙袋をいたずらにへこませていった。紙袋がかさかさと音を立てる。
「そうだこれ晶乃にあげる」
紙袋を取り上げて渡すと晶乃はいいの?と首を傾げた。開けてみてと勧めると入っているのは先程の射的で当てた白い小箱だ。箱を更に開けると梱包材でぐるぐるになった物体があって、梱包材を取り払うと出てきたのは目に涼しげな銀色のもの。掌半分くらいの大きさの金属の丸い台座に湾曲した針金がついていてその先に小さな赤いガラスの金魚が二つ下げられるようになっている。
「わ、モビールだったの?本当にいいのイザンくん?折角取ったのに」
丸くころんとした形の金魚を一つ取り出して目の前にかざし、晶乃は言った。
「久し振りに付き合ってもらって楽しかったしお礼。それにこういうの机の上に飾っておくのはボクの柄じゃないし正剛に見られたらからかわれそうだしね。これをボクだと思ってお守り代わりにして勉強に励んでよ」
「あはは、そっか、ありがとう。大事にするね」
晶乃は梱包材も何も一つづつ元通りに箱の中にしまうとまた袋に収めた。
「さてここからが本題です」
「はい?」
切り出すと驚いたように晶乃がこちらを向いた。日が落ち闇が濃くなる中その顔の白さは際立って見える。
「ずっと聞こうと思ってたんだけどまた何か総一郎と陰険な喧嘩でもした訳?晶乃って随分インドアに引き篭もってたみたいだし」
晶乃の横で可能性をあれこれ考えて残ったのはこの線だった。ただ総一郎は妹をそういう風に追い詰めるようにはどうしても思えなかった(実際ちょっと前の暇だった頃の総一郎は結構気を遣って妹とあちこち出歩いていた筈だ)ので確信を持つには弱い。
晶乃もすぐさま首を振った、
「そんなんじゃないよ。だって受験生なんだし一生に一回位こういう勉強の仕方してもいいんじゃないのかな」
「転入した当初は学年の50%位を行ったり来たりの成績だったのが今や一部教科は15%圏で志望校も余程のことがなければ大丈夫って太鼓判押されてる人間が?国内最難関クラスのとこ狙ってる宗親達だってもうちょっと遊んでるよ?」
宗親と高柳の二人は高校生にしてかなり華々しい経歴の持ち主だからあちこちから引き合いがあった。つまり早々に進学先を我が校に決めておいて研究室にでも顔を出しませんかと。それは相談してかせずか二人共蹴ってしまい普通の一般入試の道を選んだ。便宜を図られることで縛られるのに懲りたんじゃないのかなと総一郎は言ったものだ。
「やだ、どうしてイザンくんが私の成績知ってるの?それに宗親くん達とは比べちゃいけないと思うけど」
「保安部員たるもの会社のVIPのご家族様のことは案外何でも把握しちゃうのがお仕事だからねー。だから、どうして?イルカを連れて行っても付き合って息抜きもしたくないし総一郎がいいって言ってるのにこんな近所の外出で済ませたい位切羽詰ってんの?…っとそんな顔しないでよ、責めてるんじゃなくて単純に疑問なんだから」
晶乃が困ったような顔をするのに急いで言葉が荒くなってしまうのを抑える。そう晶乃を責めたいわけじゃなくて理由が知りたいだけ。どうも今日は何だか冷静さを欠いてしまっている。
…ふっと、沈黙が落ちた。晶乃の視線の先を追うと石段の下には夕暮れも過ぎた津川の町の明かりが広がっていた。
「そうだね、…笑わないで聞いてね?」
その沈黙がもどかしくなった頃晶乃が口を開く。頷き返すと彼女は続けた。
「お兄ちゃんの方、そろそろ新しいプロジェクトの話が出てきてるって聞いて」
「ああその話?製薬系は一つのプロジェクトに何年もかかるからね。今は移行期」
イヅナのプロジェクトからまた新しいプロジェクトへ。医療製薬はかなり熾烈な競争の世界だしそんな中で再生医療といいイヅナのことといい一定以上の成果を残している総一郎は箱実からかなりの期待をかけられまた次のプロジェクトの主幹研究員にと推されている。
「お兄ちゃんは私と暮らしたいって日本に帰って来てくれたけど新しいプロジェクトが本格的になったらまたアメリカに長期滞在とかもありえるかもって。だから私が進学しても卒業する頃はどうなってるかわかんないねなんて話をしてて」
「それで?」
そして自分は…どうなるだろう。今の箱実での自分の立場は『留保』だ。イヅナから最適化機関の騒動で上の人間がかなり入れ替わって風通しが良くなった分箱実の暗部を深く知っている自分は持て余されまた希望が通りやすくなってもいる。
晶乃は両手で己の顔を覆った。何かを隠したいかのように。
「…うん、その時はまたこの前みたいなことしないようにしなくちゃって。あの時は他の人が色々助けてくれたけど私は言いたいこととか伝えたいことを自分で、大変ことになる前にしっかり伝えられるようにならなきゃ駄目なんだって。それも自分のことばっかり考えてるんじゃなくて…なんて言うのかな、他の人の置かれた立場とか、そういうのも考えて尊重して摺り合わせながら。…それにはこれからもっと沢山の人に会って、お話して、経験を積んで、背が伸びたりお化粧が上手になるってことじゃなくて私の中身を大人にしていかないといけないんだよねって。その方法が今のところはこれしか思いつかないから」
くぐもる声でとつとつと言い終えると顔を覆う両手を離し、晶乃は息をついた。
「…だからなの?」
恥の表情で伏目がちに頷く。
…晶乃が今話したのは彼女と総一郎の関係性だけではなくてもっと広範囲の話。それを晶乃は晶乃なりに検証して、予想される未来の最善を選択する方法を考えてるみたいだ。
「進学するのと大人になるのがイコールじゃないのはわかってる。…こんなのってイザンくんみたいな人から見たら凄く子供でしょ?だから言いづらくて」
「そんなことないよ。どうやって自分の目的を達成するかなんて人それぞれなんだし」
これが晶乃の戦い方。地味で不器用だけど、だから大変できっと大事なこと。何故って晶乃は普通の女の子だから。選択肢のない自分や、あるいは持っている才能によって人より歩みが早い宗親や高柳、お調子者で己がどこに行こうとしてるのか全然分ってない正剛とは違う。
それに自惚れてもいいなら晶乃の話は多分自分のことも含まれてる。きっとイヅナだけじゃなく自分も晶乃の中に何かを刻んでまった。それがいいものなのか悪いものなのかはわからないけど。
「…でもそれで自分が潰れてたら元も子もないだろ?それだけの実力はあるんだし晶乃は人の立場がーとか言う前にもっと図太く図々しく自信持ったらいいんだよ。時間が限られてるかもしれないなら尚のこと総一郎をこき使って我儘言って楽したらいいんだ、磨り減るような奴じゃないんだから。…それに」
「…それに?」
「ボクは晶乃のそういうところは結構好きだよ」
それが何なのか自分は晶乃の傍で見定めてみたい、いや、許されるなら見定めるだけじゃなくてもっと深く交わり繋がりたい。
両肩に手をかけ軽く引き寄せると晶乃は顔を赤くしながらも背を心持ち傾けた。…久し振りに触れる晶乃の唇は少し冷たい。
「…次はもっと遠出するからね?」
「…次?」
「夏は長いんだから。こんな近距離短時間の外出じゃチャンスも何もないし」
「チャンスって何の?」
夏物の服は冬のに比べて嵩が少ないから色々詰込んでバッグは膨らんでるように見えるのに軽い。
「晶乃の荷物はこれだけ?」
兄も確認するとマンションのエントランス前に回してきた車の後部座席のドアを開け兄のと自分のと二人分のバッグを置いた。
兄に続いてマンションのルーフの影から一歩足を踏み出すと時刻はまだ早いし空気もいかにも夏の朝ですという感じで澄んでいて涼しいのに、日差しは半袖の腕がびしびしと押されるように強い。これから車に乗るんだとしても何か羽織っておかないといきなりこんな日差しを浴びてたら日焼けじゃなくて火傷しそう。
ちょっと慌てて運転席に乗り込む兄に言った。
「お兄ちゃん、バッグから出しておきたいものがあるんだけどいい?」
ドアを開けると自分のバッグを取り上げて中を見る。白いシフォンのカーディガン。入れたと思ってたのに影も形もない。
バッグのファスナーを閉めると兄にヘッドレスト越しに声をかけた。
「ごめんなさい忘れ物したみたい。さっと行って取ってくる」
「そうかい?まだ皆との待ち合わせには時間があるんだから急がなくて大丈夫だよ」
…
…
…
さっき出てきたばかりだというのに家の中はすっかり静かだった。窓を締め切った室内は既に室温がじわっと上がりかけていて、カーテンとロールスクリーンは全て閉じてあるから薄暗く、自分の家なのに他の人の家に忍び込んだような変な感じ。
そうしないといけない理由はないけどこっそりと自室に向かうとカーディガンはクロゼットのパイプの真中にかけてあった。朝方準備してる最中に何かで中断してすっかり忘れちゃったのかもしれない。
ここで羽織ってゆこうとカーディガンに袖を通し、姿見の鏡を覗くと自分の後ろで何かが動いているのが見えた。
「…?」
振り返るとカーテンが風にそよいでいた。最上階はいい風が通るから朝と夕方と、エアコンに頼らず窓は開けるようにしているのだけどこれまた閉め忘れたみたい。何だか忘れ物ばっかり。
窓を閉めて今度こそ忘れ物は何もないといいけどと見渡すと視界の端でまだ動いているものがあって。
…確認して思わず口元が緩んだ。机の上のモビールだ。ガラスの赤い金魚が二つ、湾曲した針金の先に下がった棒のあっちとこっちとで風を受けた名残でゆらりゆらりと揺れている。
「じゃあ行ってくるね」
モビールに声をかけて軽く手を振ると部屋を出て、ゆっくりとドアを閉めた。