なつのこばなし

普段は夜通し誰かしらラボに居るんだけど、夏は休みを取る人も多くて人が少なくなっちゃうからね、ちょっと寂しいって言われるんだよ。夏の間時々お泊りだけでもさせてあげて構わないかな。晶乃の勉強も大事だし、居る時はできるだけ僕が相手するようにするから。普段でも一人遊びの上手な子だしそんなにうるさくはならないと思うけど。
とか、兄に言われて勿論断る理由もなくてさてお泊りの日。
リビングはちょっとだけ賑やかだった。
「はーい、ボクの負け。お前のカンの強さも大概だな、チビ」
互いの手札を一目確認するとイザンは言った。
イルカはにこっと笑うと手元のホワイトボードに文字を書き込んだ。
もういっかいやりますか?
「ボクはもういいよ。それより子供はそろそろ風呂と寝る時間だろ。片付け」
言われて頷くと、イルカは手札を集めて揃え、カードを片付け始めた。
それを参考書片手に横目で見ていると小学生の頃の杉田兄弟を思い出して-勿論二人は顔立も年齢も全然違うんだけど年上の子が年下の子を相手にしている様子はまさしくこんな感じだった-なんとなくほほえましい気分になりながらイザンに尋ねた。
「手加減してくれてたの?」
夕飯後の空き時間、イルカ位の年頃の子供が喜ぶような本もソフトも家にはないし、と、探して辛うじて見つかったのはトランプだった。それで易しいゲームにしておけばよかったのに簡単な役を揃えるゲームを選んだイザンの意図は何であるにせよ不発に終わった。ルール一式教えて貰ったイルカは五分五分位のいい勝負をしてみせたのだ。
「まさか、子供相手にだってそんなことしないって。こいつの勝負カンが強いの」
イザンは肩をすくめた。
「それは興味深い話だね…と」
ノートパソコンに向かいながら時折二人を気にしていた兄はエンターキーを一押しするとぱたりとディスプレイを押し閉じイザンに声をかけた。
「お陰様で朝一の提出には間に合いそうだよイザン。本当だったら僕のやらなきゃいけないことだったのに悪かったね」
「全く、ベビーシッターなんて保安部員の仕事じゃないんだけど?勤務時間外に仕事を持ち込まれるのって嫌いだなボク。しかもこれ総一郎のボランティア代理だもん手当もつかないし」
イルカに渡されたトランプをシャッフルしながらイザンは言った。
「晶乃になかなか会えないって言ってたから招いたんだけど止めた方が良かった?」
兄がさらりと返すとシャッフルする手が乱れカードがばらばらと飛んで落ちた。
「え…そうだったの?」
確かに、改まったデートみたいなことはあんまりできてないのは事実ではある。イザンが保安部の仕事であちこち派遣されたりあるいは自分が三年生になったものだから模試や何やで空いてる時間がかち合うことが多くないのが理由だった。それでも学園に行けば学年は違えどしょっちゅう姿を見かけたし、そんな中で直接会うことがあれば短いながらも親しく言葉を交わす。メールや携帯でのやりとりだって頻繁にではないけれどもあった。だからあまり会えてないという認識ではなかったのだが。
「…だってボクの我儘で晶乃の邪魔する訳にいかないだろ!?ボクだって遠慮って言葉位知ってるよ!でもさ」
カードを集めケースに押し込むとイザンはこちらにやってきて隣に座り顔をぐいと近くする-何かを観察してる風-瞼の二重の深さや眉の整った形がはっきりわかるくらい近くに。前回こんな距離でイザンの顔を見たのはいつ頃のことだったろう。
「久し振りに来てみたら晶乃って顔真っ白だし、大変なのは判るけど不健康にも程があるんじゃない?たまには遊んどかないと。知ってるでしょ勉強してばっかりだとバカになるって」
「そんなに顔色悪い…かな」
毎朝洗顔する度に覗く洗面所の鏡。自分の顔色なんて毎日見てたらよくわからないものだけど人に指摘されると気になって両の頬に手を当てた。
「そうだよ」
イザンはその両手を攫った。指と指が絡んで。
「やる気を出してる人間にこんなこと言うのもどうかと思うけど、駄目だったら留学しちゃえば?総一郎みたいにさ。英語が不安だったらボクがずっとつきっきりで教えてあげる。まずはピロートークからでどう? I’m co」
イザンの後頭部に何かが飛んできてきれいにヒットした。
「て!」
ソファの座面に落ちたものをイザンが拾い上げると、それは兄のパソコンに刺さっていたメモリだった。イザンはくるりと兄に向き直る。
「何てもの投げてくるの総一郎!これ明日提出のデータ入ってるって」
「ちゃんとバックアップは取ってあるよ。それより二人ともまだ高校生なんだし年齢に相応しいお付き合いを推奨するけどね?」
兄はイザンが投げ返したメモリを受け取った。
「…冗談はともかく、晶乃に息抜きが必要なのは本気だよ。その位いいでしょ?」
むくれてイザンが言うと、兄は少々わざとらしく腕を組んで吐息をついてみせた。
「そうだね僕も忙しくなっちゃって晶乃を連れ出してあげられないし、一夏座ったままはきついだろうしね、頃合なのかな。たまにはお買い物以外で出かけてきたらどうだい?晶乃」
「あ、うん…」
何だか今年は家に缶詰のイメージだったから咄嗟に水を向けられてもすぐには頭が切り替わらなかったのだけれど。それでもふと思い浮かんだのはいつも足を運んでいる商店街で見かけるポスターだった。手描きの味のあるお月様と風鈴のイラストで…あれはいつ開催って書いてあっただろう。そういえばちょっと前、クロゼットの中を整理してたら丁度いいものもしまってあったっけ。
「あのね、商店街のポスターにあったんだけど確か近いうちにお祭りがあるんだって。納涼祭。行ってみない?」
イザンに尋ねる。そういえば彼は元々日本育ちではないのだしこういうことに馴染みがあるかどうかは不明だが。
「お祭り」
イザンは首を捻った。
「…ああ、あれでしょ、不衛生な場所で不衛生な食べ物と不条理なモノを買って、その代金にマフィアに高い金を取られるマゾヒスティックイベント」
「それはちょっとちがうと思う…でもそうだよね、イザンくんはこっちのお祭りとかよく知らないんだしもうちょっと楽しそうなところの方がいいかな。浴衣あったんだけど」
イザンは何故か慌てた。
「別に行かないとは言ってないよ?」
「じゃあそれで決まりね」
話の決着がつくのを待っていたのか、こちらの方をにこにこしながら眺めていたイルカは兄の方へ歩いてゆくとホワイトボードに書き込んだ。
おふろにはいりますか?そういちろう
「うん、そうしようか。イザンも今日はありがとう。門限は大丈夫?」
「大丈夫も何も、人数少ないから寮監も寮生も皆揃ってグダグダだよ。一人位いなくたってスルーして終了だと思うな、あんなチェック態勢じゃ」
イザンには彼が箱実製薬の保安部員である都合上、門限や外出禁止時間帯の規則が大分ゆるくされているらしいが、それでも何もない平時はできるだけ他の生徒と同じように生活するよう学園の運営側から求められているということは兄から聞いた。イザンもそれに不服はないらしく、ソファから立ち上がると帰り支度を始めた。
「そうか。ところで」
ノートパソコンを置いたテーブルを離れ、イルカと共にバスルームへ向かおうとしながら、兄はイザンに声をかけた。
「…信じてるからね?イザン」
「信じるって何?調べるつもり?総一郎のスケベ」
兄の右腕が唸った。

「…大体さ」
後頭部の痛みが未だに思い出せるとでもいうようにさすりさすりしながらイザンは脚をぶらぶらさせた。
夕方近いマンションのリビング。イザンは行儀悪くソファを丸々一つ占拠して横になり手すりに頭を預け、相変わらずノートパソコンに向かいっぱなしの総一郎ではなく天井に視線を固定したまま言った。
「聞いたら晶乃の志望校って箱実の系列の教授が居るとこだっていうししかもこのマンションから通学圏だしさ。もしかしてエルに学部の説明させたのも晶乃をなんとなく誘導する為なんじゃないのー?総一郎の手と目の届く場所に」
皮肉めいたイザンの言葉に総一郎は首を捻った。
キーをしばらく叩いてから彼に答える。
「そんなに過保護なことしてるかな?僕って」
「ボクから見たらね。だって総一郎って高校から留学して苦労してたんでしょ?それが妹のことになったら自宅から通いなさいとか僕の知ってる教授が居る大学に行きなさいとか手取り足取り過ぎるんじゃない?まさか就職も箱実に口利きでもするつもり?いつまでもお兄ちゃんのカワイイ妹じゃないんだからね、そんなだといつかすっごい失望することになるよ」
「別に晶乃がここを出て暮らしたいって言ったら止めはしないよ。ただ僕にはまだ晶乃の監督責任があるからそれを果たしてるだけ。君みたいな油断ならない子も居るから目を離すわけにいかないし」
イザンは起き上がると総一郎を睨んだ。
総一郎とイザンとの間で軽ーく、火花が散った。
「ボクみたいなのと総一郎と、どっちが晶乃にとって有害度が高いか疑問だけど」
イザンはそもそも自分の治療に関わった人間全員を疑い嫌い信用していなかった。それが総一郎に対する辛辣な言葉と態度に昇華されていたのだが晶乃との付合いの中で多少は軟化していた。けれどあからさまに牽制されれば受けて立つ位の激しさは未だある。
「僕なんて君の足元にも及ばないよ安心して」
総一郎は総一郎で常人には窺い知れない思考回路の迷宮の彼方で妹の晶乃に、晶乃という存在にかなり重きを置いているからその信条にわざわざ挑もうという人間がいればどんなことでもという危うさもある。
が。
「ごめんなさいお待たせしましたー」
その二人の間の緊張を全て消し去ったのは当の晶乃の明るい声だった。…視線がリビングに小走りに入ってきた彼女に集中して。
紺の地の花模様の浴衣。対照色でよく映える黄系統の帯は蝶結び、休み中にちょっと長くなった髪は和のテイストのチャームがついたクリップで纏めて、顔色が悪いと指摘されたのを気にしたのか薄化粧。それでも色は白いからローズ系のリップがかわいらしい。
「ああ、よく似合ってるね。そんな浴衣持ってたなんて知らなかった」
咄嗟に褒め言葉が出てくるのは年長者の余裕か、総一郎は妹を見て言った。
「うん、中学生の時に友達皆で花火を見に行こうって話をしてね、その時に買ったの。裾を縫って丈を短くしてたから解いたんだけど…まだ縫い糸残ってないかな」
体を捻って背面の裾を気にする。そこでイザンと目が合って笑いかけた。
「…この柄って子供っぽいとかそんなことない?」
「…」
もしも彼女がパーティドレスとかそんなのを着てたんだとしたらこんなにもどこを見ていいか戸惑うこともなかっただろう。纏め髪で露出したうなじから背に繋がるラインや、裾からちらりと覗いた細いふくらはぎから足首の白っぽい生々しさはこういう服でなければ意識する筈もなかったものだ。人は持って生まれた遺伝子で似合う服が決まってるなんてヨタ話を今なら信じてみてもいい。
総一郎はイザンを一瞥すると言った。
「晶乃、イザンは晶乃があんまり綺麗だから照れてるんだよ」
「え、本当?」
晶乃の顔がぼうっと染まった。
そこでイザンの金縛りは解けた。
「だっ誰がっ!」
「違うの?」
「…いや、否定はしないよ否定は、特に晶乃が綺麗だってことに関して」
わたわたするイザンと顔を赤くしっぱなしの晶乃を総一郎はとりなした。
「ほらほら、そんなことしてたらいくら時間があっても足りないだろう?行っておいで。あまり遅くならないようにね」
「あ、はーい」
微妙な距離感の二人は弾かれたようにリビングを出て行って、どうやら玄関も出たらしいのを確認すると総一郎はノートパソコンの電源を落とした。…長いことディスプレイを見ていたせいか目がしばしばする。眼鏡をかけておけばよかったなと目元を軽く押さえて。
許したのは許さないで変にこそこそされるより状況のコントロールがし易いからだしあれだけプレッシャーかけておけば大丈夫だとは思うけど。人は恐怖に縛られるものだし恐怖とはおそらく敵意と表裏一体のものだ。
それにしても自分の身体のことなら何でも随意に操れる少年も、どうやら管理の埒外のものはあるらしい。それが晶乃絡みだというのは見ていてからかいたくなる。
ふ、と、口から息が漏れた。決して溜息ではないものが。