こつこつ。
シャープペンの先で、ノートの罫線以外はまだ真っ白なページを叩く。
こつこつこつ。
この家で暮らすようになってから、いや、中学生の頃から、勉強する時は机の上に携帯を置いておかないのは自分で自分に課した「しばり」だった。携帯はすぐおもちゃになる。ネットを覗いたり友達にメールしたりしていればあっという間に時間を吹っ飛ばすことができる。勉強が苦なわけじゃないけどかといって誘惑に鉄壁の守りを敷けるわけでもない自分の性格というのはよく知ってるつもりだったから、机に向かうときはあえてすぐ手の届かない場所、鞄の中とか本棚の高いところとかに携帯を突っ込んでおいた。またそれはこれから勉強に集中するんだというおまじないでもあったのだけれど。
けれど、今は携帯は机の上に、更に言うとノートのすぐ傍にある。
学校の学生証も兼ねるオレンジ色の携帯は落としたときに壊れはしなかったものの外装にかなり派手な擦り傷ができてしまって、担任からも周囲の友人からもそして兄からも取り替えるように申請したらどうかと薦められたが、頷くことはどうしてもできなかった。
…あれ以来、兄は事件の一切に対して口が重いままだ。
自分に対する悪意とか、そういう種類のことが兄をこの件に関して無口にさせているのではないことは知っていた。兄は箱実という企業に所属する一研究者でありそして今回のことはいつでも一言の元に兄を切り捨てることの出来る位の、会社の上位の人間が関わるものであること。そして自分は被害者であるけれどだからといってそれ以上の権利を持つ存在ではないこと。兄の知り得ることにも限界が存在し、自分がしつこく聞いても優しい兄をただ困らせるだけなのだとよくよく判っていたから深く追求することもできなかった。
またイヅナのことに関しても、解析は進んでいるらしいがイヅナの一連の行動の謎にこれだという決定的なことは発見できていないらしい。
だから、兄と自分の間はここのところずっと凪だった。以前のような言い争いもなければかといってぱっと華やぐような会話で盛り上がることもない。朝起床して兄と共に朝食を取ってから学校に行き、帰宅して自分が起きている時間に兄が帰ってくればまた一緒に夕食を取り、あたりさわりのないことを話しておやすみの挨拶をして就寝して…という穏やかだが変わりのない日を過ごしているとあの夜の出来事が、ほんの何週間か前のことなのにどんどん色あせて夢のように思えてくる。
ただこの傷だらけの携帯だけがあの夜のことを今も生々しく語りかけてくる、あれは夢なんかじゃなかったよと証明する存在だった。そして、姿を消したイザンと自分とを繋ぐ存在でもあった。
イザンの不在はクラスでは「体調を崩したので専門の病院で入院と精密検査が必要」と説明されているとは正剛から聞いた。逆に、社内の関係者が身内に居る朝倉なら何か詳しいことがわからないかと尋ねられたのだけれどそれには首を振るしかなかった。
あの夜から、携帯は何度も鳴った。兄からの、すぅ子からの、宗親からの、高柳からの、正剛からの、電話やメール。今日は帰るの遅くなりそうだからごめんね、とか、授業でうっかり聞き漏らしたところがあるんだけど朝倉はそこらちゃんとノート取ってた?とか、期末テストの勉強一緒にやらない?とか、泡のような呟き。携帯が鳴る度発信者を確認して、その度にがっかりして、がっかりするなんて皆に悪いことしてる、と軽く自己嫌悪して。
もちろん自分からイザンに連絡を取ろうとしてみたこともあった。その何度かの試みは全て、現在呼び出している携帯は電源が入っていないという無機質なメッセージではねつけられたので待ちの姿勢にならざるを得なかった。
そして、いつの間にか携帯は自宅に居るときは机の上が定位置になってしまった。
こつこつ。
シャープペンの先でノートを叩く。
叩きながら、机に向かって何回目か、携帯に目を走らせる。ただ遊んでいるだけなら時間はあっという間に過ぎてゆくのに、このところ時間が経つのが意地悪な位遅すぎる。
ノートは真っ白なまま。
…早いけどもう寝ちゃおうかな、とも思う。期末テストは終わったのだしとうとう高校3年生という名の受験生になるにはまだもうちょっとの猶予がある。そういう間の時期だからか同級生達もなんとなく雰囲気がゆるい。
…でも。
こつこつこつ。
またノートを叩こうとして、叩こうとして、ふと手は止まった。まだ、ノートは叩いてない。…どこから聞こえてくる、何の音なんだろう。
慌てて部屋の中を見渡し、部屋のドアが叩かれているのではないのを確かめると、その音源に耳を済ませて窓のカーテンを開け放つ。
人の姿が、そこにはあった。
「ねえ、早く開けてくれないと勝手に鍵壊して不法侵入しちゃうよ晶乃ー?」
防寒仕様の厚いガラスを白く曇らせて、イザンはにこやかに笑っていた。
沢山、それはもう沢山、経ってしまった日数の分喋りたいこと尋ねたいことはあった筈だったのだけど、鍵を外し窓を開けてまず口から出てきたのは
「…イザンくん、ここ最上階なんだけど…」
という言葉だった。
窓の下の外壁のほんのわずかな出っ張りに物凄いバランスで足をひっかけて立っていたイザンは器用に身を躍らせると窓枠の上に腰を下ろした。
「言っただろ、ボクは並の体じゃないって。筋力調整すればこの位の高さにはジャンプで上がれるし、それに晶乃のところには長居しないよ。次に行かないといけないところもあるから」
それでもまだ冷たい夜の風が暖房で適温に保たれている部屋の中の空気をかき乱しているのに気がついたらしく、イザンは靴を脱ぐと床に立って窓をぴしゃりと閉めた。
「どう?元気してた?」
そして、自分と毎日学校で会っていた頃のおはようとかとかそんな挨拶みたいに本当に軽く言った。ただもうその顔には口調そのままの軽い笑いの一つも浮かんでいない。
「正剛くんが、イザンくんは入院することになったってクラスで先生が言ってたって聞いたけど本当?」
その話はもっともらしい理由というやつで真実には1ミリだってかすっていないけれど、いきなりのイザンの出現に頭から唇に繋がるどこかで思考停止してしまったようで何か会話のとっかかりが必要だった。
案の定、イザンの口元が皮肉に歪む。
「まさか、そんな話を信じる程晶乃ってバカだったの?総一郎に聞いただろ?本社で査問会だよ。終わるまでボクは逃亡しないようにずっと保安部の怖ーいおじさんの監視下に置かれてたわけ。それで今日やっとボクの処分も決定したから晴れて解放されてその足でこっちまで戻ってきた」
「うん、査問会がって話は聞いてたけど…どうなったの?」
イザンがここに来られたということはそんなに悪いことにはならなかったのだろうか、やっと以前兄と話したことがまとまった話の歯車として噛み合った、そんな感じ。
「ボクのしたことは箱実の上層部の命令でもあるから責任は四対六位。上層部じゃ二人退任するってさ。ボクはまだ未成年だから成人するまでは箱実に身分を置かれるけどそれ以降のことはそれまでのボクの働き次第で決まる。つまり失った信用を取り戻したいなら身を粉にして働けって話。本っ当涙が出るほどありがたいよね」
肩をすくめ、それから不思議な感じの色の瞳がまっすぐ自分に向かう。
「なんだ、晶乃は怒んないの?」
「怒るって、どうして?」
聞き返さずにはいられない、あれからずっと自分の中で澱んでいる毎晩の夜更かしの原因はそんな感情じゃないのに。
「だって」
息継ぎするには長すぎる位の間があった。
「…だってさ、ボクは晶乃を騙したんだよ?本当のことってのは言わなかっただけで嘘はついちゃいないけど、ボクは散々お前を騙して、危ない目に遭わせただろ?イザンくんなんて大っ嫌いとか言われてビンタの一つも貰う覚悟で来たのに。そしたら正剛に殴られる前に気合入るかなと思ってさ。でもボクは晶乃に謝るつもりなんてないよ?あれは箱実の社員としてのボクの仕事だったんだからね」
言うと、何かを待つようにイザンは黙り込んだ。
イザンが自分にとってただの「北川くん」で、箱実の人間だとわかる前は始終笑顔を絶やさない愛想の良さと口数の多さでなんとなく流されてしまうことも多かったのだけど、それが二つとも失せてしまった今は挑発めいた言葉も何だか空回りしているようにうつろに響く。
イザンは本当にそんなことを望んでここまで来たのだろうか。
イザンは多分、何かを、自分には明かせない何かをまた抱えている、そんな気がした。
…ずるい。
ちりちり、ちりちりと胸が疼く。
けれどこの場ではねつけてしまったらきっともうイザンに会えることはないだろうというのも、理屈ではなく直感で感じた。
「ビンタって、そんなことするわけないじゃない…私、ずっと心配してたんだよ?ずっと連絡も取れなかったし、お兄ちゃんにも詳しく聞けないし…心配してた。私だけじゃなくて正剛くんも。いきなり会えなくなっちゃったから」
そうだこの気持ちは小学生のあの時と同じ。
授業の途中で事務の人が教室まで来て、担任の先生と何かをささやき交わし、おばさんが学校まで迎えに来てくれた。病院には兄が一足先におじさんと着いていて、それからとても冷静に説明してくれた。起こってしまったこと。これからどうしなきゃいけないのかということ。
あの時全てのことは自分を置き去りにして進み、自分の力では何一つ変えられはしなかった。そしてそのうち、わだかまりが残ってしまったことは解けるまでに随分時間がかかった。けれど今は勿論起こったことは変えられないけれど自分とイザンのこれからをほんの少し位は変えられる可能性があるかもしれない。
だから、イザンの意図はわからないけど自分が今思っていることを素直に口にする。
「…会えてよかった。来てくれてありがとう、イザンくん」
俯いた前髪の向こうでイザンがうろたえた。
「…ちょ、何泣いてんだよ晶乃!?」
「…え、私泣いてる?」
目尻に指を当てるとそこには確かに溢れているものがあった。コートとズボンのポケットを慌てて探ると、イザンはハンカチを取り出して頬にぎゅうと押し付けた。
「泣くなよ」
「…うん」
「泣くなって。こんなのがバレたら総一郎に殺されるだけじゃ済まない」
「うん…ごめんね」
「…だからどうして晶乃が謝るんだって」
やけくそのようにハンカチがぽんぽんと頬に押し当てられる度に触れるイザンのコートの袖は氷のように冷たかった。外の気温がどの位なのかはわからないけどこんなに冷えてしまうものなのだろうか。
………………………………もしかして。
その理由に思い当たった瞬間、涙がぴたりと止まった。
「…何だよ、ボクの顔に何かついてる?」
ポーカーフェイスの奥にあるものは、多分これが正解。そうだイザンはこういう男の子なんだ。
「…ううん、何も」
首を振ると、ハンカチは頬から離れた。
でも今言うのは止めておこう、イザンから言いたくないのなら少し黙っていたっていい。またこのことに触れる機会があるのなら、あると信じて、それはその時に。
「イザンくんはこれからどうするの?学園には戻るの?」
「…ん、ボクが希望すれば可能だってさ。でもそれは正剛に会ってから決める。あいつもボクに色々言いたいことあるだろうから」
正剛はイザンになんと答えるだろう。でも、またいきなりイザンの姿が消えてしまわないように。
「イザンくんの決めることは私は止められないけど、こっちに残ることになってもそうじゃなくても、…一言でいいから連絡くれる?」
「分かった、そうする」
イザンは頷いた。
「さてと、そろそろ行くよ。寮だと窓越しに喋るわけにもいかないし」
「あ、そうだ、その前にちゃんと玄関から上がってお茶でも飲んでいかない?外は寒かったでしょ?それに今日はお兄ちゃん帰ってくるの早かったから家に居るの。お兄ちゃんもきっとイザンくんのこと心配してたと思うから」
「へ、心配?お邪魔虫がいなくなってせいせいしてるの間違いじゃなくて?」
「そんなことないよ」
笑って促すと、イザンは気が進まないといった様子ながらも承知した。
「…ちょっとだけだからな、本当に」
そして、窓に向き直り開け放ったイザンのコートのポケットから何かが落ちた。
「イザンくん、これ…?」
先程のハンカチかと思って拾い上げるとそれは折りたたまれた紙だった。イザンは怪訝な顔で振り返って受け取り、ひねくり回していたがやっと思い出したといった感じで言った。
「ああ、これってチビがくれた折り紙だ。ずっとしまいっぱなしになってたから」
「チビってイルカちゃんのこと?そういえば私も貰って置いてあるよ」
折り紙のあやめ。自分は学園に転校してきて間もない頃にイルカから貰った。イザンのものはポケットにしまう時にそうしたのかそれともそのままの形で渡されたのか、自分が貰ったのとは違って完成一歩手前の花びらの部分が展開されてない形になっている。
それをイザンは指先で丁寧に広げた。そして花が開いた形になると、気のせいなのか白いあやめの花びらにまだらに模様が入っているように見えた。…いや模様ではなく、どうやら紙の裏面に何かが書かれているようだ。
「…これ、何か書いてある?」
イザンもそのことに気がついたようで、今度はやや乱暴に折り紙をばらしていった。
イヅナのトライアルに関連する事件がすっきりしない形ながらも収束に近づいているきざしを見せ始め、そうなると長い間放りっぱなしになっていた論文に手をつけるゆとりもできそうでここ最近は帰宅するとその関連の資料を纏めるために部屋に篭りがちだったのだけれど、その晩もそうしているとインターフォンのチャイムが鳴った。
時計を確認してみて少し訝しく思う。ラボの知人だろうか?差し迫った案件は今は抱えていない。となると宅配便か何か。そういえば妹が今日は普段買い物に寄る店が臨時休店していて遠回りしたから帰るのが遅くなったとか言っていた。だから最初作ろうと思ってた夕飯と内容が違うからお兄ちゃんの口には合わないかも(勿論そんなことはなかったのだけど)と。多分その線か。
時計からノートパソコンに視線を戻すと、ドアの開く音と妹の軽い足音が聞こえて遠ざかり、そして足音はどうやら自分の部屋の方へ向かってきた。
―ノック。
「お兄ちゃん、ちょっといい?」
「どうぞ」
ドアが開くと妹の顔がひょいと覗き、何だか久しぶりに聞くような気がする明るく弾んだ声がぽんと飛んできた。
「お兄ちゃんあのね、イザンくん帰ってきたんだって。寮に行く前に顔見せに家に来てくれたみたい。上がってもらったけど」
「…ええ?」
演技とかではなくかなり間の抜けた声が出た。
査問会には一度、ラボの同僚としてエリオットと共に出席した。感情的な理由ではなく世間一般的に求められる道義的な理由でイザン寄りの発言をして(少し驚いたことにエリオットも)終わり、以来折りに触れてエリオットにそれとなく尋ねてはいたが彼は首を振るばかりだった。保安部ではないところが裁定を下すことであるし決定事項ではないことを軽々口にする人となりでもない、ならばとイザンのことは一旦丸々預けてイヅナの解析と論文を気にかける日常に戻ったのだった。今日はこのことに関する話題がエリオットと自分の間で出た記憶もない。
しかし妹は自分の困惑には構わず一旦引っ込んだ。ドアの影で押し問答みたいな感じのやりとりがややあったかと思うと、唐突にイザンが先頭になって姿を見せた。
「…こんばんは総一郎、久しぶり。寒いからお茶たかりに来た」
懐かしく思える位の仏頂面、でも何だかきっぱりと決意したような面持ちの少年は左手に固く晶乃の手を握っていた。そして仕方ないなあという感じに笑う晶乃。
…これがどうやら彼と妹の選択。認めるかどうかはともかく興味深い話とも言える。
「こんばんはイザン。君ってココア好きだったっけ?たまには僕が淹れてあげるからキッチンに行こうか」
「えー、ボクは総一郎の淹れたココアが飲みたくてこんなとこに寄ったんじゃないよ?」
口を尖らすイザンの抗議を無視すると立ち上がり、二人を促して歩き出す。キッチンの方へ。