イザンと晶乃・捏造エンド編

 鍵を鍵穴に差し込み、ドアを引き開くと家の中に向かって声をかけてみる。
 「ただいま」
 …返事はない。
 無理もないかとなるべく物音を立てないように靴を脱ぎリビングに向かうと冬の遅い朝日はロールスクリーンと天窓を通して室内の全てのものをオレンジ色に染め上げていた。屋外に比べると室温は随分快適に感じられたが頭上にゆるく吹きつけてくる風でエアコンがついたままなのだと気づき、止めようとしてリモコンを探すとふと人の気配を感じた。
 ソファを見てみれば妹が-晶乃が自室の毛布を持ってきたらしくそれにくるまってかすかな寝息をたてていて、手にはしっかりと携帯を握り締めている。自分はいつ帰るかわからないから先に休んでいるようにとは言ってあったのだけれどやっぱりメールででも一回連絡を入れておくべきだっただろうか。…それとも自分ではない他の誰かからの連絡を待っていたのか。
 どちらにせよ今は寝かせておいてあげよう。そう思い細いパジャマの肩が毛布でちゃんと覆われるように引っ張って伸ばすと、流れる柔らかな髪先からシャンプーの香りが淡く漂った。
もしかして帰ってきてからもシャワーを浴びて寝たんだろうか、さすがは女の子だなとか変な感心をしてそうっと背を向けリビングを出ようとすると、晶乃の体がもぞもぞと動いた。
 「…あ、お兄ちゃん…?」
 瞼がとても重たそうに離れたりくっついたりを数度繰り返し、ふらつきながら晶乃は起き上がった。
 「…ごめん、起こしちゃったね。もっと寝てても大丈夫だよ?疲れてるんだし」
 「ううん」
 首を振ると床に足を下ろす。こする目元にはまだ影が濃く昨晩の鬼ごっこの苛烈さを語るようで何だか痛々しい。
 「少しお兄ちゃんのこと待ってようかと思ったんだけど寝ちゃって…いつ帰ってきたの?全然わかんなかった」
 「ええと、つい今さっき」
 「え」
壁にかかる時計を見ると晶乃は目を丸くした。それから自分の顔と、朝日に染められたリビングの中ぐるりと、そしてまた自分へと視線が巡ると手を自分の頬の方に指し伸ばしてくる。
 「…そんな、お兄ちゃんこそ大丈夫なの?顔色凄く悪いよ…これって光の加減でそう見えてるんじゃない…よね」
 触れる妹の指先はほんのりあたたかくて、伝わってくる何かが体にしんと積もった疲れを幾分か和らげてくれるような気がした。それに後押しされ眉を八の字に下げて自分の顔を覗きこむようにする妹に笑顔を作る。
 「でもちゃんとラボで仮眠してから帰ってきたんだよ。今日は午後からラボに行けばいいことになってるし晶乃と少し話したら寝かせて貰うから平気」
 「…そう」
 指を離すと晶乃は傷だらけの携帯を開き、何事かを確認すると閉じた。…おそらく先程の自分の予想は当たってる。なまじ相手が相手なだけに諸手を振って賛成はできないけことだれど、これから晶乃に告げようとしていることは二人の間に決定的なひびを入れてしまうかもしれない。それを自分の手で下さなければいけないのは気が重すぎた。
 「学校の方は休校だって。明日以降のことは今日中に連絡するってメールが来てて」
 「だろうね。校舎はあんなのじゃ大規模な改修しないといけないだろうしTTはまだ動かせそうにないから」
 こういう場面には以前も遭遇したことがある。けれどあの時、父と母が亡くなってそれを晶乃に告げた時はどんな風だったかは記憶がすっぽり抜け落ちてしまっている。
でも小さな晶乃は決して悲しみに心を閉ざしっ放しにしてしまうようなことはなかった。その過程を近くで見守ることはできなかったけれど喪った痛みはどうやら癒えて明るく笑う、ただその傍にいるだけで安らげる素敵な雰囲気を備えた女の子になった。
 十代の恋はうつろいやすいものだし例えこんなことがなくてもいつかは離れてゆくものだったかもしれない。しかしこれで傷を負ってしまったとしても以前のようにまた記憶は上書きされてゆき乗り越えるだろう。晶乃はそういう強さも備えた子だ。
 そして自分は世界の端と端に引き離されたとしても晶乃とは兄妹で、それは何が起こったとしても揺るがない事実。
 …それなら、これから言おうとしていることがたとえどんな行く末を招いたとしても、今度こそ僕は晶乃の隣で。
 …ソファの、晶乃の横に腰を下ろす。
 「…それと、午後になったら一緒にラボに来て貰ってもいいかな」
 「イヅナのこと?」
 晶乃は首を傾げた。
 「うん、それもあるんだけど…実はイザンのことで」
 「イザンくん…?イザンくんが、どうかしたのお兄ちゃん…?」

 (からんだ感じの咳が出たものだから喉は痛くない?と晶乃は言う。そういえばエアコンで空気が乾燥しているせいか喉はからからだった。晶乃はキッチンに行って手早くカップを満たすと僕に渡してくれる。少しジンジャーをきかせたミルクティーだ)
 イザンが保安部員なのはもう知ってるね
 うん、教えて貰った。ずっと杉田や私たちのこと守ってくれてたんだって。自分達のいる世界を割り切るにはまだガキだから警護が必要なことは伏せてたって
…そんなこと言ってたんだ。そうだね、前にも言ったかもしれないけど僕たちのやってるような研究を受け入れられないっていう信条や思想を持つ人たちは過激な行動に出ることがあるし、その場合研究に関わる人の家族が狙われることも珍しくはないんだ。でも学園でいかにもって感じの人を晶乃たちに貼り付けておくわけにはいかないからね、だから年の近いイザンが選ばれた
 …え、でも、イザンくんは転校生だって言ってたけど…私のことはともかく杉田たちは前は誰が守ってたの?
 (どこまでの事を言ったらいいんだろう)
 いや、そういう警戒のレベルは携わってる研究や状況に応じて変わるんだよ。それに即して箱実では研究員に警護の人をつけたりつけなかったりする。今回のトライアルに関しては特別に警戒が必要だという情報が事前にあったものだから警護をして貰い易いように僕は晶乃をこっちに呼んだんだ。…それだけじゃなくて、帰国してずっと晶乃と一緒に暮らしたいと思ってたんだけどなかなかきっかけが掴めなかったものだからこのことを口実にさせて貰ったって今更言ったら怒るかな、晶乃は
 (晶乃は小さく首を振る)
 保安部はそうやって研究員の警護をしたり、箱実という企業と所属する人たちに危害を加えようとする人や団体がないか情報の収集をしたり、もっと話が進んでしまって何かが起こってしまったときはそれを真っ先に解決する為に動く部署なんだ。言い換えれば会社の中の警察みたいなものかな。多少過激なことをすることもあるけど保安部が守ってくれるからこそ箱実の研究者は安心して研究に打ち込めるんだよ。ここまではいい?
 うん
 僕とイザンとはずっと前から知り合いだったんだ。僕がアメリカで箱実に誘われて入社した時にはもうイザンの方が先にいて
 ちょ、ちょっと待ってお兄ちゃん。イザンくんって今高校生なのにそんな子供の頃から働いてたってこと?どうして?
 ああ、ええと。説明は難しいんだけどイザンには特殊な才能があるんだよ。宗親くんや高柳くんはロボット作りの才能があるから僕が箱実のスカウトマンになって、箱実学園に入学して一緒にイヅナを作ろうって誘ったのは晶乃がこちらに越してきたときに説明したよね。それと似たようなものかな。有能な人材だったら年齢や学歴にはあんまりこだわらないのが箱実の社風だから
イザンは僕が入社して少し経った頃には保安部に所属してた。イザンの才能が保安部員向きだったこともあるしさっき言った警護は警護してるってことを周囲に大っぴらにしないのも大事なことなんだ。そういう事には普通は大人が当たるけれどイザンはあの通りだし見てそういう任務に就いてるってわかる人は滅多にいない
 …それで、保安部員として働くイザンの才能に目をつけた人は他にもいたらしくて
 どういうこと?
 …保安部だけじゃなくて僕なんて会ったこともないような箱実の上の上の方の人の個人的なお抱え部署があって、いつの時点でかはわからないけどイザンはそこら辺の人に気に入られちゃったみたいだ
 それって凄いことじゃないの?
 凄い…確かに凄いことなんだろうね。ただその部署でイザンに振られた仕事が問題なんだよ。今度は僕が晶乃に質問してみようか。よくニュースで話題になるような会社ぐるみの不正って晶乃はどう思う?政治家への不正献金でも原発の事故隠しでも
 どう思うって
 例えば会社の社長が政治家のなんとか先生にお金を積んでその会社に有利なように取り計らってもらおうと決めたとして、社長は直接ATMに行ったりはしないだろう?その下の人がお金を準備したり、先生に届けるように手配する。事故を隠そうと電力会社の上の人が決めたらデータを消したり書類を処分したり緘口令を敷くのはその下の人だ。そういう実行役の人のことは晶乃はどう思う?
 (回りくどいのはわかってる。僕は何を避けたいんだろう)
 …お兄ちゃん、まさか、イザンくん…
 晶乃はその下の人のことは命令されたんだから仕方がないって思うかなそれともそんな不正に加担するなんて許せないって思うかな
 …それは細かいことがわからないと判断できないよ…色々な事情があるのかもしれないし…
 そう。晶乃はそう思うんだね
 (カップの中身はいつの間にかからっぽだ)
 …それでね、晶乃。イザンの仕事はどうやら今回の事件にも深く関わってるみたいだ
 深く関わるって…
 箱実の上の人は十河重工にイザンをスパイとして送り込むことを考えた。そこでイザンは十河に行き箱実を裏切ったふりをして十河の情報を箱実に流してたんだ
 !
 勿論十河に信頼される為には箱実の情報もあちらに流さないといけないからかなり危険な綱渡りをしてた筈だよ。イザンはそうやって十河の上の方にも食い込んでいって、箱実と十河の自律機動車輌の双方がトライアルに参加すると決定が下された時にはイヅナの情報を十河に渡しながら、十河が干渉しようとする箱実の人をなんとか庇おうと色々動いてたらしい
 でもあっちもこっちも立てようとして上手くゆくものじゃないし結局大変なことになってしまって…正剛くんのこととか
 …正剛くん?
 …あの日正剛くんは携帯からウィルスを一斉送信して箱実のネットを壊滅させ、実験棟の事故とイヅナが逃げ出すきっかけを作ったけどネットで正剛くんに近づいてそうするように持ちかけたのは…十河恒人と組んだイザンだったんだ
 …嘘
 イザンが自分からそう言ったんだよ。エリオットが調べた結果も間違いないって。今回のことでイザンが関与してたことはもっと他にもあるらしくてそれはこれから一つ一つ検証していかないといけない。時間はかかるだろうけど
 (血の気の引いていた晶乃の顔が赤く染まった)
 …箱実の人が箱実の人を陥れるって…そんなのおかしいよ…どうして上の人はイザンくんがそんなことするのを許したの!?イザンくんはどうして十河さんに断らなかったの!?そうだ…それに、イザンくんのお父さんやお母さんは?どうして自分の子供がそんな仕事をさせられるのを放っておいたの!?
 落ち着いて晶乃
 (許容でも拒絶でもなくて怒り。晶乃はイザンの為にこんな風に怒るんだ。少し君が羨ましいよイザン)
 勿論このことは大問題になるだろうね。ずっと未成年の社員に命令して犯罪行為をさせてた訳だし。もう保安部だけで収まる話じゃなくなってるから箱実という会社自体の姿勢が問われることになると思うよ。箱実の企業としての全体的な活動に倫理的な規定を設けてちゃんと遂行されるように監視する部署もあるしそこが上の人やイザンのことにどれだけ切り込めて、どんな裁定を下すのかが重要になってくる。…それと一番最後の質問はイザンのプライベートな話になってしまうし僕の口からは言えない。これ以上イザンに嫌われちゃっても困るから
 お兄ちゃんってイザンくんと仲悪かったの?
 どうだろう。イザンはあれで結構気難しいところもあるしよくわからないな
 …それで、午後に晶乃にラボに来て貰いたいのは、晶乃は…その、最近イザンと仲が良かったみたいだから…イザンに不審な言動がなかったかどうか聞きたいって…イヅナのこともね
 …
 …この前から晶乃には嫌なことばかりお願いしててごめん
 …イザンくんはこれからどうなるの?
 本社で査問会にかけられることになるだろうね。純粋にイザン一人の意思で起こした行動は少ないだろうしそこら辺で落としどころが見つかればいいんだけど。多分僕とエリオットも参考人として呼ばれることになると思うよ。保安部の上司とラボの同僚として
 …お兄ちゃん
 …うん?
 …ごめんなさい、ちょっと一人で色々考えたい。ラボには行くようにする
 …ありがとう晶乃。そうだね、僕もそろそろ休ませて貰おうか
 おやすみなさいお兄ちゃん
 おやすみ、晶乃

 カップをシンクに置き、晶乃がソファに座ったまま動こうとしないのを見てから自室に引き取った。
 一晩主が帰ってこなかった部屋の中は冷え冷えとしており、溜息一つ、重くだるい体をベッドに投げ出すと冷たい空気は肺を刺激して喉の奥から咳が漏れ出た。
あまり派手に咳き込んでいるとまた晶乃に余計な心配をかけてしまう。布団に顔を埋めて咳を押し殺し、収まるのをしばし待った後で新鮮な空気を吸い込む為に仰向き荒い息が静まると、額に浮かんだ汗を手のひらで拭った。シャワーも浴びたいような気がするけれどそれは寝て起きてから様子を見た方がいいだろう。今日は丸々一日休めるわけではないのだし。
 着替えようかどうか少しだけ迷った後、セーターを脱ごうと腕を抜きかけ、ふと面倒になってしまってそのまま布団の中に潜り込むと自分の体は活動限界をとっくに超えてしまっていたのに気が張って保っていたらしく、睡魔は速やかに全身を浸し始めた。
 そして思い浮かんだのはソファに座り組んだ己の手先を見つめたままの晶乃の後姿。
 あまり思いつめないようにと声をかけるとか、晶乃は一人ではないからねと意思表示をする為に軽く肩を抱くとか、できることはあったかもしれないけどそれは今の晶乃の望むことではないだろうから。
 …晶乃が自分で悩み、結論を出さねばならないこと。
 …晶乃の意志、晶乃の選択なのだろうけどそれにしても随分難しい子を選んでしまったものだと思わずにはいられない。
 飛び降り自殺未遂の後に記憶を丸々失った代わりに特異な力を身につけ、親権を箱実に買い取られた少年。
 晶乃が指摘したとおり、年齢からしたらその仕事はアブノーマルに過ぎた。イザンは拒否もせずに唯々諾々と従うものだから周囲がいいように彼を使っているような側面もあって、もう少し年相応の生活というのも必要なんじゃないかという危惧があって、だからわざわざイザンを学園に在籍させながらの警護という線を推した経緯がある。
 回復の過程でイザンはすっかり白紙になってしまった自分を取り戻す為、いや、全く新しい自分を再構築する為に恐ろしい位の勢いで様々なものを吸収した。けれど結局はそれらは座学が殆どで、子供が長い時間の中で成長してゆく中であるような、様々な人間と接触した上で培われる経験や感情といったものには乏しい。ややもするとイザンの言動にはイザンの自我というしっかりした核があってのことじゃなくどこかの何かのコピーじゃないかと思われるものもかなりある。
 だからイザンが…どうやら晶乃を好いてるらしいと知って何より感じたのはイザンにもそういう感情があるんだという奇妙な驚きだった。
 ただし問題は晶乃が相手だということ、たったそれだけなのだけれど。
 …例えば、もっと別の少年だったら。
 …だったら。
 …だったら僕は、もっと平静でいられたんだろうか。
 …僕は、晶乃とその誰かを喜んで受け入れられたんだろうか。
 ひやりと閃いた言葉の刃はしかし、押し寄せる眠りの暖かさに流されて、やがて慈悲深い闇は何もかもを包み込んだ。