猫を拾ったのは日曜日の夕方のことだった。拾ったというよりあがりこんできたという方が正しいかもしれない。
学校を早めに退けてから冷蔵庫の中身を足すために買い物に寄り、自分の部屋まで帰ってきたとき、彼はドアの前にふわふわしたものが丸まっているのをみつけた。 彼は思わず声をかけた。
「君…どこの家の子かな?」
ふわふわは眠そうに目を開くと一声鳴いた。
「にゃー」
見ると子猫とは言わないまでもまだ大人にはなりきっていない猫のようだ。
ちょっと汚れていて、目やにが目の端に溜まっており、痩せている。
「…お腹、空いてるの?」
「にゃー」
「うん、じゃあ、僕の夕ご飯につきあう?なかなか食べきれないんだよね、一人だと…肉でも魚でも」
「にゃー」
そんなわけで速水厚志はその日から部屋に毛皮をまとう同居者を抱えることになった。
シャンプーをして顔を拭ってやるとそこそこ可愛い猫で、猫はその日から彼のベッドの一角を自分の寝床と定めた。
「…あれれ、君って女の子?」
とりあえずの猫布団代わりに古いタオルを用意し、丸くなっている猫を上に載せている最中彼はそれに気がついた。
「にゃー」
「じゃあ名前。…よーへー。じゃ駄目だよね、女の子だし。ええと。舞…うん、マイでどうかな」
猫に触れないのは呪われた宿命故とかなんとか言っていた、不器用で可愛い相棒の女の子の名前だ。…ちょっと気難しくなりそうだけど。
「にゃー」
「決まりね」
しかしその翌日から速水厚志の睡眠との戦いは始まった。
猫は本来、『寝る子』が転じて『ねこ』という言葉になったと言われるほど、よく寝る生き物である。しかしよく寝るからといって人間の生活パターンに応じた睡眠のローテーションを組んでいるわけでは、決してないのだった。
朝は4時に起きて朝飯の催促をする。起きるまで、催促を繰り返す。夜は夜で寝入りばなに外へ出たいと催促する。外へ出して貰うまで、催促を繰り返す。
毎日毎日出撃だ整備だでかなり不規則な生活を送っていた彼は、あっという間によれよれになった。
「…速水、そなた最近調子でも悪いのか?」
ある日戦闘を終えてハンガーに降り立った芝村は、速水に尋ねた。
「え、なんで?」
「反応速度が遅い、先程もあと一歩のところでナーガを逃した。私とそなたの息もどうも微妙に合っておらんようだ」
「そういえば、そう…だったっけ」
速水は問いつめるような芝村の瞳に、とぼけてみせた。
「調子が悪そうだと、思っているのは私だけではないぞ。今日は原に、私が速水をいぢめて不憫な目に遭わせているのではないかなどと言われてしまった。心外だな」
「ごめんね。原さんには言っておくから。なんでもないって」
芝村は拳でぽんと速水の胸を叩いた。
「自己管理も職務のうちだ、もう少ししゃっきりせよ」
「はいはい」
ウォードレスの小柄な後ろ姿を見送る。
しかし猫はご主人様が出撃で疲れて帰ってこようが泥のように眠りたい気分だろうが、あんまり関係ないのだった。しかし理不尽なおねだりをする猫に対してへえへえと言うことを聞いてやる猫馬鹿のご主人様もどっちもどっちである。
雨音に速水は目を見開いた。
最近は体もとある一定のパターンを作るようになった。猫が目を覚ます前に目が覚めるようになったのだ。
薄闇の中体をほんの少し起こして、猫が自分の足の間の布団のくぼみで丸くなっているのを見る。
(もう少し眠れるかな…)
そしてまた、目を閉じる。雨音は随分激しいようだ。
次に速水が目を覚ましたのはチャイムの音でだった。
速水は跳ね起きた。玄関まで一直線に走り、ドアを開ける。
「はい!」
見ると、その目の前には芝村舞がむっつりと立っていた。髪の毛に水滴の飾りをつけている。
「…あれ、芝村さん…どうしたの?」
芝村は速水を頭のてっぺんから足下まで見下ろして、言った。
「…寝ていたのか。随分いいご身分だな」
「…え?」
芝村は鞄を開けるとノートを取りだした。次いで、左手に提げた袋を突き出す。
「今日の授業のノートだ。それとクラスの皆からの見舞いの品」
「はぁ?」
「皆して速水が休んだのは私がしごいていぢめたからだろうと言ってな、仲直りせよ、とか何か訳のわからない言いがかりをつけて私をここに寄越したのだ。用は済んだから帰るぞ」
踵を返す芝村の手首を速水は捕まえた。
「何をするか、離せ」
「あの。何がなんだか。僕、学校休んだって。…え?…大体、今何時?」
「寝過ぎて頭が回らなくなったか?5時。17時だ」
「え…っ?」
つまり猫が目を覚まさなかったので自分も目を覚まさなかったのだと、ようやく納得がいったのはそれからちょっとしてだった。芝村は傘もささずにここまで来たとかでぬれねずみだったし、謝らないでおくわけにもいかないので強引に彼女を部屋にひっぱり込んだのはそのついでである。
慌てて身繕いし、タオルと熱い紅茶を芝村に手渡して速水は見舞いの品とやらを改めていた。缶詰。レトルトのお粥とか。こりゃ完璧に病人だと思われてる。
「そもそもこんな時間まで寝てるとはどういう了見だ」
頭にタオルを載せたままの芝村は速水の背中に声をかけた。
「…なんか睡眠不足で、最近」
「それは小隊の皆がそうだろう。そなただけ特別扱いは許されぬぞ」
「うん。明日学校に行ったら謝らなきゃ、皆に」
速水は振り返った。
芝村は彫像のような姿で凍りついていた。
猫が芝村の膝の上に身を乗り出して、彼女が手に持つティーカップの匂いを嗅いでいる。
「あっ、マイ、こらっ!」
速水は猫を抱き上げた。芝村がとてもスローな動きで差し上げていたカップを元の高さに戻す。
「ごめん、行儀が悪くて…いつも一緒にご飯とか食べてるから人のものはなんでも貰えると思ってて」
「そなたの猫か」
堅くなって芝村は尋ねた。
「そう。先週だっけな、飼い始めたばかりなんだ」
「ところで私が理不尽に叱られたような気がしたが」
「マイ、って名前なんだ、この子。迷惑かな。迷惑なら別の名前に変えるけど。かおりとか。せいかとか」
いわく言い難い表情を、芝村は浮かべた。
「な…なななぜ、私の名前を」
「女の子の名前ってあんまり思い浮かばなかったから」
「そ、そうか」
「迷惑なら変えるよ。それでいいよね、マイ」
「にゃー」
不思議な会話を交わす一人と一匹を見て、芝村は溜息をついた。
「…まあ、好きにするがいい」