筑土町の一角にある銀楼閣ビルヂング、そこに間借りする胡散臭いと噂の鳴海探偵社の扉を勝手知った気楽さで軽やかに開いて訪れた朝倉タヱは、事務所の中を見回して何事かと目を見張った。
「…えー?」
わきまえた人間だからえーと言うのにも声は抑えたが、目の前の光景にどうも納得いかなかったのだ。
そこへ彼女の後ろへ立って耳打ちしたのは探偵社に間借りしている書生だった。
「すいませんタヱさん、所長は今忙しくて」
「うっそ」
嘘と言うにもわきまえた人間だったからやっぱり小声だったが、所長の鳴海が電話を片手に書類をかき回しながら何やらやり取りしてる様なんて、この探偵社に出入りするようになって日は浅くないのに片手で数える位しか見たことがないような気がした。住み込みで働いてる書生の給金だって滞りがちだからってかわいそうに思えて小遣い渡したことだってあるのに。
「所長指名の依頼なんです」
その書生つまりライドウはすぐ済むと思うからと椅子を薦め、ソーサーとカップをタヱの前に置いた。
「ありがとうライドウ君。それにしても珍しいこともあるもんねえ。また地震でも起こるんじゃないの」
「多分そのうち私のところに話が回ってくると思います」
「鳴海さんはライドウ君を使いすぎだと思うわよ私」
未だ信じられぬものがあるという風に鳴海の方を見つつも謝意を示してカップを取り、珈琲を一口含んでタヱはほうと吐息をついた。
「美味しい」
「所長の淹れたのには及びません」
「淹れ方じゃないのよ、鳴海さんは道楽者だからそこらのカフェーなんかよりいい豆仕入れてるの。私がいつもここに来て珈琲たかってるのもそれだから」
それはどうだかと同意も反論もせず、タヱと同じように上司の方に視線をやり、それから気がついてライドウはふと言った。
「口紅の色、変わりましたかタヱさん」
タヱは一瞬、きょとんとしたがすぐに顔を綻ばせた。
「そうなの!ほら、蟲人さん達のことは記事にはできなかったけど槻賀多村に行った時に撮った写真はいいのが多かったから別の切り口で記事にしたのよ。失われゆく日本の情緒を山陰で見つけたとかそんな感じで。それで社内賞を貰ってね、多くないけど金一封が出たの。だから奮発しちゃった」
タエは遠慮も何もなしにライドウの肩を叩いた。結構痛い。
「ライドウ君ってその顔ですっごいさり気無くそういうこと言うんだもの、私が女学生だったら間違いなく惚れてるわよ」
「はあ」
「そうやってよく気がつく男の子ってもてるの。ああでもライドウ君は元々色男だもんね、鬼に金棒?」
ひとしきり笑った後、まだまだ鳴海の用事が済みそうにない様子だと察するとまた来るわとタヱは手をひらひらと振って出て行った。
鳴海が電話を置いたのは更に半刻してからだった。
「タヱちゃん来てたのな、ごめんよライドウ」
ぬるいのでもいいからと客人に淹れた珈琲の残りを手ずからカップに注ぐと、鳴海はライドウに声をかけた。
「槻賀多ではお世話になりましたとお伝えくださいと」
「お世話ね。そういやもうあっちから帰ってきて随分になるんだよな」
カップの中身を一気に飲み干すと、鳴海は思いついたように言った。
「そういえばタヱちゃんのあれ、新しい口紅?」
…
ライドウはじとっと鳴海を見据えた。
「…どうしてお前がそんなに無口に怒ってるのか俺にはよくわかんないけどなんか最近情緒不安定じゃないか